エッセイ集

□読書ノート
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(7)(了)



遂に,『論考』の倫理学まで至りました。
思いのほか,長期連載のようになりましたが,やっとおしまいです。


※以下は,論考の倫理学,そして,哲学観を語るものですが,本当に美しい言葉が並んでいます。

6・4
すべての命題は,同等の価値をもつ。

山元は,すべての命題が同等の価値を持つが故に,「より高きもの」,「最も高きもの(最高善)」にかかわる主題は,命題的に記述することができないと解釈する(425頁注5)

※要素命題の独立性からふえんされるのでしょうか。

6・41
世界の意義は,世界の外側になくてはならない。世界のなかでは,すべては,そのあるがままにある。そして,すべては,起こるがままに起こる。仮にあるとしても,その価値には,いかなる価値もない。
仮に,価値のある価値があるとすれば,それは,生起するものすべての外側,そのようであるものすべての外側になくてはならない。すべての生起するものと,そのようであるものとは,偶然的なものであるから。
それを非偶然的たらしめるものは,世界のなかにはありえない。もしあるとすれば,それはふたたび偶然的なものであろうから。
それは,世界の外側になくてはならない。

※世界の中にあるものは,すべて世界の中の必然に従って生起する。したがって,世界の中にあるものの価値を世界内から問うことはできないため,それを問うためには,世界の外にいる必要があるということでしょう。

6・42
それゆえに,倫理学の命題なるものもありえない。

※個人的には,この節を出すために,ウィトゲンシュタインは,論考を書いたような感じもするのですが。

6・421
倫理学は,明らかに,ことばには出せぬものである。
倫理学は超越的である。
倫理学と美学とは一つのものである。

※ハーバーマスは,価値相対主義の行き着く先は,新保守主義か美的アナーキズムだと言っていましたが(私は,それはそれで正しいと思います。),それに相通じるものがあります。

6・422
「なんじ……すべし」という形の倫理法則をつきつけられて人がまず考えてみることは,もしそうしなければどうなるか,ということであろう。とはいえ,倫理学が通常の意味の賞罰と関係のないことも明かである。とすれば,行動の結果についての,どうなるかというこの問いは,倫理学にとっては重大ならざるものにちがいない。少なくとも行動の結果は,重大事件であってはならない。といっても,このような問いを発することにも,やはり何ほどかの正しさはあるにちがいない。確かに,ある種の倫理的罰と賞とは存在するにちがいないけれども,それらは,しかし,行動そのもののうちに存在するにちがいない。
〔明らかに,賞は快きもの,罰は快くないものであることに違いない〕

6・423
倫理的なるものの担い手としての意志については,語ることはできない。
そして,現象としての意志については,心理学だけが関心をもつ。

6・43
仮に善なる意志作用あるいは悪なる意志作用が世界をつくりかえることができるとすれば,そのとき意志作用のなしうることは,世界の境界をつくりかえることだけであって,さまざまな事実を,つまり言語で表現できるものをつくりかえることではない。
略言すれば,そのとき世界は,その境界をつくりかえられることによって,おしなべて別な世界にならねばならない。いわば全体として,減少するか,増大しなくてはならない。
とすれば,幸福なるものの世界は,不幸なるものの世界とは,まったく別なものであろう。

6・431
同じように,死においては,世界は変化するのではなくて,存在を停止してしまうのである。

6・4311
ところで,死は生の出来事ではない。人は死を体験することはできない。もしも,永遠とは限りない時間持続ではなしに無時間性のことである,と考えるなら,現在のうちに生きている人は,永遠に生きていることになる。
われらの生に終わりはない。我らの視野に限りはないのと同じように。

6・4312
人間の魂の,時間的な意味での不死,いいかえると死後にも永遠に生きつづけるであろうことは,どのようなしかたでも保証はされていない。それどころか,そうした想定をしてみても,それでもって人が到達しようと望んだことは,じつは少しも達成されてはいないのである。それとも,私が永遠に生きつづけさえすれば,そのことによって謎が解かれる,とでもいうのであるか。むしろ,そのとき,そのような永生そのものが,現在の生に少しも劣らぬ謎とはならないか。空間と時間のうちなる生の謎の解決は,空間と時間の外側にある。
〔ここで解決されるべきものは,まさしく自然科学の問題ではない。〕

※「自然科学の問題ではない」というのは,死に対するものとしての生は,空間と時間の外側にあるからでしょうか。

6・432
世界は現にどのようなものであるか。このことは,より高きものにとっては,完全にどうでもいいことである。神は,世界のなかでは,みずからを啓示したまわない。

6・4321
すべての事実は,課題のためにある。解決のためにあるのではない。

※6・432の注釈であることからすると,本節の文脈は,創造主としての神が,いるとして,その神がこの世界を作ったのであるとすれば,世界に起きることは,何らかの解決が必要なものではないということでしょうか。そうすると,創造主たる神は,世界に(属する物にとって)何らかの問題があるとしても,その問題に興味を持つ余地はないので,世界で起きる問題について,世界に属する者に啓示することもないということなのでしょうか。
 よく考えられがちな神学批判的な発想のような解釈でよいのでしょうか。

6・44
世界はどのように(wie)あるか,ということが神秘なのではない。
世界がある,ということ(daβ)が神秘的なのである。

6・45
永遠の相の下で世界を直観することは,世界を――境界づけられた――全体として直観することである。
世界を境界づけられた全体として感ずること,この感じこそ,神秘的なるものである。

6・5
人が語り出すことのできぬ回答に対しては,人間は問いをも語りだすことはできない。
謎は存在しない。
ともあれ問いが発せられる以上,その問いは,応えることのできるものである。

※能力的にはともかくとして,「論理的には」答えられるはずだということでしょうか。

6・51
懐疑主義は,反駁不可能なものではない。まぎれもなく非意義的なのである。問うこともできないのを疑おうとするのであるから。
なんとなれば,問いが成立するときだけ疑いも成立し,答えが成立するだけ問いも成立し,そして,何かが語られうるだけ答えも成立するのであるから。

6・52
いま,仮に,可能なかぎりのすべての科学的問いが回答されたとせよ。そのときにも私たちはやはり,生の問題は依然として手もつけられないままであるかのように感ずる。もとよりそのときには,もはやどのような問いも残っていないであろう。そして,もはや問いはないということが,じつはその回答でもある。

6・521
生の問題の解決を,人は,その問題の消失という形で気づく。
〔このことが,長い疑いのあとで生の意義を明らかにした人は,その意義がそもそもどのようなものであったかを語ることもできない,ということの理由ではあるまいか。〕

6・522
もとよりことばには出せぬこともある。それはみずからを示す。それがすなわち,神秘的なものである。

6・53
哲学の正しい方法は,本来的には,次のようなものであろう――語られうるもの,つまり自然科学の諸命題〔つまり,哲学とはなんらかのかかわりのない何ものか〕以外のことは,何ごとも語らないということ,そして,だれか他人が形而上学的なことを語りたがっているとすれば,そのたびごとに,その人は,その命題中のしかじかの記号になんらの意味を与えてはいないことを,その人に教示してあげるということ。もとよりこのような方法は,その人を満足させはしないであろうが,すなわち,とくに哲学を教えられているという感じを与えはしないであろうが,それでもやはり,これがただ一つの,厳格に正しい方法なのであろう。

6・54
私のいいたいことを理解してくれる人ならば,まず私の諸命題を通り――その上に立って――,それを乗りこえていくとき,最後には,それを非意義的なものと認めるにいたるであろう。このようなしかたで,私の諸命題は,解明的なものではありえよう。〔人は,はしごをのぼりつめたときには,それを,いわば投げ捨てなくてはならない。〕
彼は,これらの命題を克服しなくてはならない。そのとき彼は初めて,世界を正視しているのである。

7 
語りえぬことについては,沈黙しなくてはならない。
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