エッセイ集

□読書ノート
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(6)

「論考」の論理学が続きます。

6・3
論理学の研究とは,すべての合法則性の研究ということである。そして,論理学の外では,すべては偶然である。

6・31
いわゆる帰納法則は,いかなる場合にも論理学の法則ではありえない。なぜなら,それは明らかに有意義的な命題であるから。それゆえに,それはア・プリオリな法則でもありえない。

※ウィトゲンシュタインが語るには,論理学はトートロジーであることに特徴があり(6・1節),したがって,トートロジーにとどまらず,元の概念よりも,内容が豊かになる帰納法則は,有意義な命題であり,そして,そうでるからこそ,逆説ながら,ア・プリオリな法則足りえないということでしょう。
 ウィトゲンシュタインは,そのことを「それゆえに,論理学の諸命題は,何ごとも語っているのではない。」(6・11)、「論理学の命題を内容的なものと思わせる理論は,つねに間違っている。」(6・111)と非常に強い言葉で語っていました。


6・32
因果法則は,法則ではない。法則の形式である。

※「因果法則」と呼ばれるものは,トートロジーではない中身のあるものであるから,「常に正しい」ものではなく,したがって,「絶対に正しい」との属性を持つ法則に当たるものではないということでしょうか。

6・321
「因果法則」,それは一つの種名である。力学には,いわゆる最小法則――たとえば,最小作用の――があるように,物理学には,因果法則すなわち因果形式の法則がある。
6・3211
それがどのようなものであるかを正確に知る前に,人はすでに,「最小作用の法則」なるものがあるにちがいない,という予感をもっていた。〔ここでも,場の場合と同じように,ア・プリオリに確実なものは,純粋に論理学的なものとしてあらわれる。〕

6・33
われわれは,恒存の法則を,ア・プリオリに信じているわけではないが,しかし,論理的形式の可能性ならば,ア・プリオリに知ってはいる。

※「論理的形式」ではなく,「論理的形式の可能性」という言い方は,よく分かりません。
 私たちは,論理学という学問は分らないですが,論理を実質において理解しており,したがって,「論理的形式をア・プリオリに知ってはいる。」というのであれば,分かるのですが,なぜ,「可能性」という必要があるのでしょうか。

6・36
仮に因果法則なるものがあるとすれば,それは,次のようなものになるであろう。すなわち,「自然法則が存在する」
とはいえ,人はもとより,それを語ることはできない。それをみずから示すのである。

3・36及び3・362以下が,帰納法に関する問題に関わりますが,一応,次の一節も。

6・361
ヘルツの表現を用いるならば,およそ思考されうるものは合法則的な連関だけである,ともいえよう。

6・362
記述されうるものは、生起しうるものでもある。そして,因果法則によって排除されるべきものは,記述されえぬものでもある。

※記述不能なものは,そもそも,因果法則から排除されてしまうことにより,語られることはない。したがって,単に,「ある」としか言いようがない(6・36節)ということになるのでしょうか。

6・363
帰納という手続きは,私たちの経験と同調しうる法則のうちのもっとも単純な法則を承認する,ということに成り立つ。

6・3631
しかしながら,このような手続きは,何ら論理学的な根拠づけをもつものではない。心理学的な根拠づけをもつにすぎない。
もっとも単純なケースが実際的にもあらわれるであろうと信ずべき根拠は,明らかに,現存していない。

6・36311
あすも太陽はのぼるであろう,ということは,一つの仮説である。すなわち,太陽がのぼるかどうかということを,私たちは知っているとはいえない。

※以上が「論考」の帰納法則批判です。
 ほかに印象に残ったのは,次の言葉。

6・373
世界は,私の意志には依存しない。

※当り前のことですが,忘れられがちなこと。
 よく――特に,倫理について語る場合に――「私は,○○と思うから,○○だ。」という言い方がされますが,それに対する切り返しの言葉によいように思います。
 しかし,「世界は,誰か(すなわち私+他者)の意志には依存しない。」という言い方をしておらず,「私」としているところがポイントのような感じもします。
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