玻璃ノ城

□玻璃ノ城 1
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書籍が日に焼けないようにと、北向きに小さい窓が一つあるだけの書庫には、昼間でもあまり陽が射さず、まして日が沈みかけている夕闇迫るこの時間帯では、部屋の中央部の天井に吊られたシャンデリアの灯りが無くてはならない。
それでも、この部屋を構成している壁の全てに本棚が設置されているため、どうしても薄暗さが残る。
そんな部屋の本棚の一つに、短い影と長い影がそれぞれ一つづつ、隣り合って伸びている。

「魔魅流、今度は彼(あ)れを取って呉(く)れ」

短い影の持ち主は、本棚の最上部の本をすっと指差した。
ウイングカラーの白いシャツに、ネクタイを締め、細身の身体のラインを協調させる襟つきベストを身につけている彼は、此処、花開院侯爵家の次男であり、名を竜二と言う。
彼の傍らに立つ、日本人離れした橙色の髪の少年は、背伸びをすることなくそれを手に取った。
着物の下に、立襟のシャツを着込み、袴を履いた格好の魔魅流は、来春に第一高等学校の受験を目指す予備校生であり、書生として、この屋敷に世話になっていた。
数えで、十八になる魔魅流が竜二に命ぜられ取ったのは、洋書であり、分厚く、ずっしりと重い。
彼はそれを竜二に渡すことなく、左の小脇に抱えた。
彼の小脇には、他にも二冊の本が抱えられており、この本を入れれば、三冊になる。
竜二のために本棚から本を取り、竜二の部屋に運ぶ。
それは、書生である魔魅流に与えられた仕事の中の一つであり、彼が予備校から帰ってきて一番最初に行う仕事でもある。

「それから、其の隣に在るのもだ」

次に望んだ本は、先程取った本の右隣とも左隣とも竜二は言わない。
魔魅流は、背表紙に書かれた英文の題名をすらすらと読み、どちらであるかを尋ねる。

「お前は、本当に優秀な“脚立”だな」

それに答えた竜二は、その本を取る魔魅流を見上げながら、彼をそう評した。
人を物に例える彼からは、悪意は感じられない。
そして、罪悪感すら感じられなかった。
それは、竜二がそれを、悪いことだと思っていないためであり、彼の口元は、楽しげな笑みさえ浮かべている。
言われた魔魅流もまた、気分を損ねた様子もなく、四冊目の本を小脇に抱えた。

「今まで、此処の使用人達の中に、字が読めても、英語までは読める者は居なかったからな、お前が来て好(よ)かったよ」

それは心からの言葉であり、竜二は、少年のような邪気の無い微笑みを見せた。

「…有り難う御座居ます」

その笑顔に目を奪われ、呼吸まで忘れていた魔魅流は、遅れて礼の言葉を口にする。
色白の頬を赤く染めていた彼の瞳は、ほどなくして憂いを帯びる。
それに気付いた竜二は、彼を見つめたまま、口を開いた。

「お前、何かオレに言いたいことが有るだろう?」

予備校で何かあったのか、魔魅流は、帰ってきてから何処か意気消沈している様子で、今まで気付かないフリをしていた竜二は、到頭それを声に出す。
魔魅流は、躊躇うように唇を震わせたが、竜二に隠し事は出来ないとわかっているため、きゅっと一度唇を結んでから、それを開いた。

「縁談が…竜二様と…朝倉公爵家の御令嬢との間に縁談の話が出ていると聞きました。…それは、真なのですか?」

不安そうに揺れる魔魅流の瞳の中にいる竜二の顔には、一切の動きがない。

「……昨今の予備校では、華族同士のそういった話まで教えて呉れるのか?」

そして、彼の口から出たのは、嘲笑だった。

「っ…」

学生達の間で交わされていた噂話を真に受けてしまった自分を恥じ、魔魅流は謝ろうとしたが、真実が知りたかったため、それを止め、じっと竜二を見つめる。

「…お前、日本語が上手く成ったな。オレを、“りゅーじ”と舌足らずに呼んでいたのが懐かしい」

しかし、竜二が次に口にした言葉は、魔魅流が聞きたかった真相ではなかった。
竜二の父の友人であった魔魅流の父親は、大英帝国に留学中、世話になっていた貴族の屋敷のメイドと恋に落ち、子をなした。
魔魅流の父は、伯爵家の嫡男だったが、まだ叙爵前で財力も権力も無かったため、断腸の思いで恋人と我が子を英国に残し、帰国した。
それから十数年の時が経ち、彼はその間に叙爵したものの、不治の病を患い、医師から余命一年と宣告されたのだ。
死を間近にして彼は、死ぬまでにもう一度、恋人と我が子に会いたいと願い、英国に使いをやって恋人と我が子を探させた。
運良く、見つけることに成功したのだったが、恋人の方はもうすでに亡くなっており、その息子だけが残されていた。
それが、魔魅流だった。
彼の父は、探し当てた魔魅流を日本に呼び寄せたのだが、父にはすでに、妻も、彼女との間に男子もいた。
身分の低い使用人の、しかも外国の血が入った魔魅流は謂わば不義の子である。
伯爵の屋敷には、魔魅流の居場所は何処にもなく、しかも、彼の父は、魔魅流がその屋敷に住まうようになって半月も経たずして病死してしまったのだ。
完全に後ろ楯の無くなった魔魅流を救ったのが、竜二の父、前花開院侯爵だった。
それは、魔魅流が第一高等学校に進学出来るまで、面倒を見てやって欲しいという故人からの遺言があったからであり、竜二の父は、それを守ったのだが、彼もまた、魔魅流を引き取って一年程経ったある日、趣味の乗馬の最中に落馬して以来、左半身不随になってしまい、早々と爵位を長男に譲り、生家のある鎌倉で隠居生活を送っている。
魔魅流は日本に来た当初、英語しか話せなかった。
この花開院家に来たときも、まだ日本語を上手く話せなかった彼の話相手になったのが、竜二だった。
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