駄作ぐさぐさ
□五十音式
1ページ/1ページ
先輩はきっと、ご存知ないのです。
五十音式
人気のない、静かな教室でひとり、そっと筆に墨を浸して、白い半紙に筆先を這わせる。
背筋をきれいに伸ばして、足を揃えて座り、左手を半紙の端に添え、視線は一心に筆先へ注がれる。
すっ、ずー、っと、微かに響く、文字が書かれる音。まるでざわめき。
僕は思わず息を飲んだ。
や っ と 、 み つ け た 。
「名前、教えてください」
びくり、と震える肩。すごく驚いたように振り向く、理知的な顔。
耳にかけられた黒髪が、ぱさりと崩れた。細い首が綺麗だ。
「え?」
音もなく近付いた、顔もしらない僕に、混乱している。僕は、真面目にもう一度繰り返した。
「名前おしえてください」
そうすると、はっとしたように教えてくれたその人の名前は、千景雨芽といった。
僕がその人を意識したのは、この高校に入学してすぐだった。
校門に立て掛けられた、「第六一回 都立黎明高等学校入学式」の看板は、とても綺麗な文字だった。とにかく、一文字一文字が整っていて、全体で見ても余白のバランスが丁度よかった。癖のない、嫌味もない、ただ純粋に綺麗な文字。
僕は少しの間それを眺め、ひどく感心していた。
眺めていて心地よい文字だった。
入学してからも、学校のなかで、その文字はよく見掛けた。
癖がないのに、同じ人の文字だとよく分かった。そのくらい、その文字は僕の好みにぴったりだった。
職員室前の掲示板、生徒会が設置したお粗末な簡易目安箱、先生の机に置かれた誰かのメモ。その文字は、ささやかに、日常のそこらじゅうに現れていた。