駄作ぐさぐさ

□五十音式
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先輩はきっと、ご存知ないのです。


五十音式



人気のない、静かな教室でひとり、そっと筆に墨を浸して、白い半紙に筆先を這わせる。
背筋をきれいに伸ばして、足を揃えて座り、左手を半紙の端に添え、視線は一心に筆先へ注がれる。

すっ、ずー、っと、微かに響く、文字が書かれる音。まるでざわめき。

僕は思わず息を飲んだ。


や っ と 、 み つ け た 。


「名前、教えてください」

びくり、と震える肩。すごく驚いたように振り向く、理知的な顔。
耳にかけられた黒髪が、ぱさりと崩れた。細い首が綺麗だ。

「え?」

音もなく近付いた、顔もしらない僕に、混乱している。僕は、真面目にもう一度繰り返した。

「名前おしえてください」

そうすると、はっとしたように教えてくれたその人の名前は、千景雨芽といった。


僕がその人を意識したのは、この高校に入学してすぐだった。

校門に立て掛けられた、「第六一回 都立黎明高等学校入学式」の看板は、とても綺麗な文字だった。とにかく、一文字一文字が整っていて、全体で見ても余白のバランスが丁度よかった。癖のない、嫌味もない、ただ純粋に綺麗な文字。
僕は少しの間それを眺め、ひどく感心していた。
眺めていて心地よい文字だった。

入学してからも、学校のなかで、その文字はよく見掛けた。
癖がないのに、同じ人の文字だとよく分かった。そのくらい、その文字は僕の好みにぴったりだった。

職員室前の掲示板、生徒会が設置したお粗末な簡易目安箱、先生の机に置かれた誰かのメモ。その文字は、ささやかに、日常のそこらじゅうに現れていた。

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