- 彼は知らない。
私がどんなに彼を想っていたのか、私がどんなに待ち侘びていたのか
知らぬまま、
土へ還ってしまう。
――すぐに戻る
彼は確かにそう言った。青い瞳で私をみて、温かな掌で頭を撫でてくれた。心地良い低音で愛を囁いてくれたではないか。だから私は待っていた。女として、妻として、ただただ無事を祈りながら。
「嘘ばっかり…」
戦にはかろうじて勝ったらしい。情報になかった軍が乱入し、混乱の中駆け抜けた景吾さまが敵総大将を討ちに行き、激戦の末、勝利した。家臣も皆なんとか生きている。その事実に跡部軍は一夜の宴会を開いたそうだ。景吾さまは兵士一人一人に酒を注ぎ労いの言葉をかけ、自分は一滴も口にしなかったと聞く。傷が、痛んだのだろうか。
勝鬨を翻し、家臣達に囲まれるようにして運ばれ帰還した彼は、既に息絶えていた。聞けば帰りの道中深かった傷が化膿し、熱まで出てしまい、その上天候も悪く雷雨に見舞われたそうだ。
「景吾さま、」
私の、信じることのできる唯一のひと。尊いお方。温かなその体温はとうに失われてしまった。血の気が引き、絹のように綺麗だったこの肌に今は無数の傷が刻まれている。ああ、透き通るような青の眼が光を浴びることはもう…、 今は乱戦。覚悟はできていたはずだ。しかしうまく受け入れられない。これが現実なのだろうが、この方のいない人生が始まってしまったことを認めたくはなかった。ああ、この方は本当に、無茶をなさる。自分の限界を決めぬからこそ、強くなれたのだと、いつの日か零していた。
「御自愛くださいと申しましたのに」
彼が、十分そうしている、と笑ったのは記憶に新しい。月の見える静かな夜だった。まだ桜が咲き始めたばかりの春先。夜は冷えるからとご自分の羽織りを私にかけてくだされた。あの頃に戻れるのならどんなに幸せだろう。
思い起こしていると、青白くなった彼の拳が何かを握っているのが目に入る。
「奥方様、景吾様はそれをずっと握っておいででした…」
「何を握って…?」
「…それが‥‥」
兵たちは口をつぐむ。 何なのだろう。私の指はいつの間にか固く握られた拳に触れていた。両の手で包み少しずつ開いていく。
「あ…!」
握られていたのは、戦へ向かう前の晩に渡した守り袋だった。彼の為にこしらえた物で、青い生地に白い革紐を通したこの世に二つとない、想いの証。それを、彼は、強く握っていた。
息が詰まり、涙が溢れる。 もう、縋り付くしかなかった。
「うあぁぁああぁあーっ」
触れた肌にヒヤリと体温を奪われてゆく。
それでも、掻き抱いた。
悔しかったでしょう、痛かったでしょう、苦しかったでしょう、寒かったでしょう、寂しかったでしょう、
もう、心配いりませんよ、 ここは貴方の家です
「っお帰り、なさい…」
彼は知らない。 私がどんなに彼を想っているのか、私がどんなに待ち侘びていたのか知らぬまま、土へ還ってしまう。
(泣き叫ぶ私を、大きな桜が見下ろしていた)
花の下にて。主催者:蒼野
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