番外
□君の笑った声が聞こえる。(坂田)
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いつも笑顔でいる名無しさんが、おれの前ではいつも困った表情をする。理由はたくさんあるだろう、勉強せずにぐーたら寝て、飯だって好き嫌い激しくて、眠かったら寝る、起きたら刀を握って外に出る、そして何より誰とも協調しない。
けれどおれが思うには、一番名無しさんが悩んでいるのは、
「おい」
「……おいじゃないでしょう」
「………」
彼女の名前を呼ばないこと。
名無しさんは紙を前にして筆を片手にそろばんをぱちぱちとはじいていたが、おれの呼びかけに反応した上に、こっちに体ごと向いてくれた。そんな些細な優しささえ、おれは好意を余計によせてしまう。
無言のおれを見て、名無しさんは はっとしたように眉間にしわをよせた。
「あっまさか銀ちゃん、私の名前忘れちゃってるんじゃないでしょうねえ?」
「違う」
そんなわけがない。読み書きはまだ上達してないけど、名無しさんという名前は漢字ですらすらと書ける。
けれど、おれの口はどうしてもその名を呼んじゃくれない。
「じゃあどうして、」
「名無しさんー!!」
さえぎった叫び声とともに、高杉が横の障子からやって来た。そして名無しさんに思いきり抱きつく。
胸がざわっとした。今すぐ引きはがしてやりたい衝動にかられたが、名無しさんの前でそんなことはしたくない、と思い直す。
「きゃっ! もう晋ちゃんてば、いい加減突撃してくるのやめなさい。こっちは痛いんだからねー」
「こんなんで痛がってちゃ、夜の時大変だぜ! って先生が言ってた(言ってないけど)」
「!! こっ、こらああッ!!」
きゃっきゃと笑って逃げる高杉に、赤面した名無しさんは一瞬腰を浮かせたが、おれと目があうと苦笑してまた戻った。
こいつはわかってないだろうが、おれは見逃しちゃいなかった。高杉が去り際におれを半眼で見つめていたこと。これが良い意味であれば、おれはこんなにひねくれちゃいない。ちなみにまわりの奴らもそうだ。
「特に用事がないんだったら……」
「………」
「ここにいる? お菓子持ってくるよ」
「…!」
けれど名無しさんはいつだって、おれを笑って見てくれている。
もしこの場で名前を呼んだら、きっと、もっと笑ってくれるだろう。
そう思うのに、むかつくほど奥手なおれは無言のままだった。