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□闇桜
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夜の桜は、
何故こんなにも、ひとの心を乱すのだろうか――
〜 闇桜 〜
屋敷の一角に、まるでこの土地の主であるような大きな桜の木がある。
古木は、屋根にかかるほどに伸びたその枝に、今年もみごとな花を咲かせた。
「眠れませぬか」
闇に発せられた声。
夜の世界にこんなにも馴染む声の持ち主を、景虎はひとりしか知らない。
近づく気配に「ああ」と答え、肩ごしに問い返した。
「おまえもか、直江」
「――はい。桜の時期は、短いですから」
「そうだな……。どの姿も見ておかねば勿体ない」
「ええ……」
しばし無言で眺むる。
闇に沈む樹肌と、闇に浮かぶ淡い花。
ひるの健やかな美しさとはまた違う、
この世ではない何処かへ誘(イザナ)うようなあやうい美しさ。
花弁が、時折風に吹かれては、ひらりはらり浮遊する。
眩みそうだ……。
と、景虎が桜の下へと歩みを進めた。
「景虎様?」
景虎は、幹を抱くように手を広げ、ごつごつとした表皮に頬をあてた。
呟く。
「オレを呼んでる……」
「景虎様?」
「この木、オレの魂(イノチ)を欲してる……」
魅入られたか?
古木には妖(アヤカシ)が棲むというではないか。
現に景虎の眼は潤みを帯び、闇に濡れ濡れと輝いていた。
まるで焦がれた彼岸へ渡る者の恍惚。
「なりませぬ」
咄嗟に、直江は景虎の身体を抱いていた。
その強さに景虎の口から小さな呻きが洩れたが、直江は腕の力を緩めなかった。
「あなたの魂は私が繋ぎとめる」
「………」
「此処(ココ)に……っ」
「――だったら直江、」
言いながら、景虎は視線だけを背後の男へ流した。
「オレが、ナニモノかに喰われてしまう前に……」
抱きしめる力強い腕に爪をたて、
「おまえがオレを、――――喰らえ」
「!」
心の臓が大きく打った。
どういう、意味だ……。
俺が、あなたを、喰らう……?
景虎の双眸は、依然潤んでいたが、正気だった。
強い眼差し。
発した言葉もきっと、切実な本気。
「景虎様……」
直江はなお強く景虎を抱きしめると、景虎の肩口に顔を埋めた。
景虎はもうなにも言わない。直江の胸に頭を預け、頭上を仰ぐ。
なにも見えない。
覆いかぶさる桜のほかにはなにも。
ふたりの姿は、しなやかな枝から舞い散る花弁にかき消され、
闇からも隠された。
遠い遠い、ある春の夜(ヨ)のこと――
終
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