金色のコルダ

□君の音色が聴きたくて
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「少しは落ち着いた?」

漸く加地の腕と唇から解放されたのはどれくらい経ってからだろう。
実際には一分に満たないとしても、香穂子にとってはそれが十分にも一時間にも長く感じられるものだった。鼓動は依然として香穂子の思考を鈍らせる。そして言葉さえも、震えてすぐに発することができなかった。

「でもまさか本当に、ここで日野さんに逢えるなんて夢みたいだよ。予感…、今日ここにくれば日野さんに逢える。そんな予感がしてたんだ」

動けない香穂子の代わりに加地が開いたままになっていたヴァイオリンケースを閉め、それを彼女の傍へと置き直してやる。穏やかな物腰でにっこりと笑う加地に香穂子の頬は未だ熱を帯びたままだった。

「私に会う…それだけの為に?」
「うん。それにここは風も気持ちいいからね。ちょっと横になって空を眺めていただけなのにまさか寝ちゃうだなんて、日野さんを待ってたのにかえってみっともない姿を見せちゃったな」
「そんな、みっともない姿だなんて…!」

むしろその逆だ、と香穂子は思う。
はじめて見た加地の寝顔にドキドキして、今になって周りの女の子達の気持ちを痛いくらいに思い知らされてしまった。格好いいだなんて、そんな風に感じてしまったことを加地はきっと知らないだろう。

香穂子はパンッと自分の頬を両手で挟んで胸の奥から大きな息を吐き出し、首をふるふると左右に振って自らの気持ちを落ち着かせる。その様子に加地は驚き両目をしばたたかせ、香穂子の頬が腫れてしまってはいないかと右手を頬へと伸ばした。

「実は私もね、加地くんの言葉を思い出して今日ここまできたんだ。加地くんがはじめて私を見つけた場所、そこへもう一度行ってみたくて」
「…え?」

加地の手が頬へと触れそうになる刹那、今度は香穂子がにっこり笑んで見せるとそのままその場からすっと立ち上がった。そしてあの日ヴァイオリンを片手に練習していた場所に立ち、そこから柵の向こうの海を眺める。

「ここが加地くんと出会った場所なんだね。…といっても私の方はまったく気づいてなかったんだけど」

眩しげに頭上をカモメが舞う海を見つめながら、両腕を空高く伸ばして香穂子が呟いた。

「あの日ここにいたから加地くんと出会えた。そのヴァイオリンがあったから、私は今ここにいる」
「日野さん…」

今日は休日で、あの日と同じ制服姿ではないけれど、香穂子は風に靡く髪を片手で押さえながら加地の方へと振り向いた。そして二人を引き合わせてくれた大切なヴァイオリンへと視線を落とし、今はケースの中で眠っているヴァイオリンを愛おしげに見つめる。
そんな香穂子の表情に、はじめて一目惚れしたあの時と変わらぬ彼女の優しい姿に加地は胸が微かに息苦しくなるのを感じた。



ああ、そうだ。
僕は彼女の音とこの表情に、惹かれてやまなかったんだ…――



「……加地くん?」

香穂子を真直ぐ見つめたまま微動だにしない加地を案じて、香穂子が数歩距離をつめ腰を折って芝生に座り込んだままの彼の顔を覗き込む。そこではじめて加地は自分が知らず知らずのうちに香穂子に魅入ってしまっていたことに気づき、なんでもないよと言わんばかりに笑顔を見せて答えた。

「日野さんは、あの時と変わらないね。もちろん僕もなにか変わったわけじゃないけど…、……ううん」

そう言いかけて加地は首を緩く左右に振った。
そして改めて顔を上げると真直ぐに彼女を見据え、その顔を視界の中心に映し出しながら言葉を繋げる。

「あの時以上に、僕は日野さんが大好きだよ」
「…っ!か…加地く…?」

そのストレート極まりない加地の言葉に、香穂子の顔はまたまた真っ赤にぼんっと染まりあがった。

「今日もここにきて、ずっと日野さんの音を聞いていたんだ。耳に残る日野さんのヴァイオリンの音。そのせいかな、贅沢過ぎる夢まで見ちゃって…」
「夢?」

なんのことだろうと、香穂子は自分の頬を両手で隠しながら首を傾げる。
この後加地の口から告げられる言葉に、今まで以上にあたふたすることになるとは露程も知らずに。

「うん、夢。贅沢過ぎて現実ではとてもありえない夢だけど。日野さんが僕の髪に触れながら、耳にキスしてくれる夢」
「……っ!?」

ゆ、夢……じゃないっ!
だってそれは、ついさっき私が加地くんの寝込みを襲いそうになったあの…!!

「日野さん、どうかした?」
「…〜っ、な…なんでも……なんでもな…」
「やっぱりおこがましい夢だよね。僕が日野さんにキスされるなんて」
「………」

恋人でもないのにと一人空を見上げて反省する加地とは対照的に、香穂子は加地に背を向けると一人頭を抱えて猛省していた。
もしも時間を遡れるのなら、あの時の自分を怒鳴ってやりたい。いや、それよりも直ちに加地の傍から引き離して立ち去らせる方が先だろうか?

なんにせよ唯一の救いは、加地がそれを夢だと思い込んでいることなのだけれど…――
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