金色のコルダ

□君の音色が聴きたくて
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「確か、加地くんが言ってたのはこの辺だよね」


風に乗り、海からの潮風が薫る。
やわらかく映える芝生に、見上げれば一面青く澄み渡る空。





―――そこに君はいたんだ。





「懐かしいなぁ、ここ。あまり人目につかない場所を選んで歩いてたらここに辿り着いて……って、あれ…?」

それはほんの気紛れだった。
日曜日、ヴァイオリンの練習にと向かった海辺の公園。

そこに彼はいた。


「……加地くん?」

海からの風がそっと緑の芝生を撫でる。
その上に両足を投げ出すようにして仰向けに横たわっていたのは他でもない、香穂子を今日この場所へと誘った加地葵その人だった。眠っているのだろうか。香穂子が草木の間を縫って加地の傍へ歩み寄っても、彼の瞼が開かれる気配は全くない。むしろ自らの両腕を枕に瞼を下ろす加地の寝顔にいつしか顔には驚きよりも緊張が走り、香穂子は加地が起きてしまわないかと胸に不安を抱えつつ膝をついてすぐ隣に座り込んだ。

「…本当に加地くんだ。でもどうしてここに?今日ここへ来るなんて一言も言ってないのに…」

転校してきて以来、加地はいつも前触れなく突然香穂子の前へと姿を現していた。けれどそれは学校だから。
同じ学年、同じ科でしかもクラスまで一緒。広いようで狭い校内では自ずと行動範囲が限られてしまう。だから加地とエントランスで会おうが屋上で遭遇しようが、然程気に留める程のことではなかったのだが…。

「もしかして、加地くんってエスパーだったりする?……なーんて、そんなわけないよね」

予想だにしなかった出来事に、つい自分の口から零れた間抜けな台詞に自ら横槍を入れてしまう。

「はじめて会った時にも思ったけど、こうして改めて見ても綺麗な顔してるよね、加地くんって。睫毛も長いし、男の子なのに髪の毛だってさらさらで。このピアスも痛くないのかなぁ、耳に二つもあけて…、…っ…」

転校初日から周囲の女の子達が騒いでいた。
眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能、スタイル抜群。おまけに男女問わず気さくで優しくて人当たりも良し。最初はそんな彼が自分に興味を持っていることが不思議でならなかったけれど、彼の口からその理由を聞いて、けれどそんな彼の言葉に胸の罪悪感が拭えなかった。

あの時の自分と今の自分は違う。



『僕、君の弾くヴァイオリン大好きだよ』



魔法のヴァイオリンをなくした今でも、私の演奏を聞いて彼はそう感じてくれるのだろうか…――



「…っ私、いま…」

いつの間にか夢中になっていた。
女の子達が惹かれてならない、無防備な彼の寝顔に。

気がつけば指はさらりと流れる加地の髪に触れていて、顔はピアスを嵌めた耳を覗き込むようにして距離を縮めていた。
そう。まるで今にも彼のその耳に口づけてしまいそうなくらいに…。

香穂子は自分の顔がみるみる真っ赤に紅潮していくのを感じながら、慌てて顔を上げ加地から距離を離す。微かに震える唇を左手で押さえて後退りすると、すぐ後ろに置いていたヴァイオリンケースに身体がぶつかり、そのまま芝生の上に音を立ててそれを倒してしまった。

「やだ、もう…っ」

そこはやわらかな芝生の上だから大きな心配はなかったものの、香穂子は急ぎヴァイオリンケースを開くと中のヴァイオリンが無事なのを確認してほっと安堵の息をついた。そして先程から鳴り止まない鼓動に更に深く息を吐き出してその場で項垂れ、双眸を細めて眼下のケースに収められたヴァイオリンをそっと指先で撫でる。
その時だった。



「……日野さん?」

寝起き独特の、やや掠れた声が背後で自分の名前を紡いだ。
そのはじめて聞く声に、香穂子の心臓が一際大きく跳ね上がる。

「やっぱり日野さんだ。後ろ姿でもしかしたらって思ったんだけど、あれ?そのヴァイオリン…」
「か、かかかかか加地くん!?あの、その私……っご、ごめんなさい!!」
「日野さん?」

耳とはいえ危うく口づけてしまいそうになってしまったことが鮮明に脳裏に甦り、香穂子は傍から見れば加地の寝込みを襲っているように見えただろう自分を恥じ、くるりと振り返るなりそのまま深々と頭を下げた。一方の加地はなぜ香穂子が目の前にいるのか、なぜ真っ赤になって自分に頭を下げているのかその理由が全くわからない。
加地はそれまで枕にしていた腕で上体を起こすと頭を下げたままの香穂子に向き直り、その頭を優しく手のひらで撫で梳いた。

「落ち着いて、日野さん。僕は日野さんに謝られるようなこと、なに一つされていないよ?」
「違うの…っ!私、加地くんの知らないところで、加地くんが眠ってるのをいいことにあんな…」
「日野さん…」
「あと少し気づくのが遅かったらきっと…本当に、ホントにごめんなさ…!」
「日野さん」
「…っ」

優しげな声で自分を宥めようとする加地とは裏腹に依然顔を上げられずにいると、突然香穂子の身体を大きな両腕がふわりと包み込んだ。視界にはそれまで飛び込んできていた足元の芝生から加地が纏う淡いブルーのシャツが映り、香穂子は自分の顔よりも熱い加地の胸に顔を埋める体勢になってしまう。
まるで壊れ物を扱うかのように身体に絡められる優しい両腕とは裏腹に、加地は決して香穂子を腕の中から放そうとはしなかった。香穂子を落ち着かせようと幾度も後ろ髪を撫でて、前髪や横額には何度も唇が降ってくる。加地は香穂子を落ち着かせる為に、だがそんなことも香穂子にとっては息もできない程胸を締めつける行為へと変わっていた。
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