TREASURE
□くまちゃん郵便(下篇・上)
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学会から帰国すると俺は加賀見副理事にネットバンク頭取に就任する意向を伝えた。
彼は学園から俺を追い出す狙いで父が送り込んできた腹心だ。
その思惑に気づいた俺は何度も無駄ですからと父に突っぱねた。
加賀見さんは学園や研究所に対する俺の情熱をどう考えたか、最近は何か画策する気配を潜めて俺を静観してる様子だ。
彼はズバ抜けた切れ者、但しトップの腹心でこそ最も能力を発揮するタイプだ。
感情を露にすることなく緻密な頭脳と冷徹な意志による完璧な仕事ぶりは見事だ。
久我沼とは違い自らにもシビアで過信がない側面も彼の恐さかもしれない。
副理事就任当時から自分の専門外に関しては率直に俺の助言や指示を仰ぐ姿勢にそれが表れている。
難しい局面でも状況に合わせて無理押しせず、機が熟すタイミングを待つ忍耐強さも並じゃない。
勿論、彼も隙間なく俺を観察しながら力量がどの程度か見極めようとしているのは言うまでもない。
「和希はんのような天才の御方と違うて私はデキが悪ぅ生まれついとりますのや」
おっとりと世辞や謙遜を口にする時には人の悪さが浮き上がる。
人あたりの柔らかさは表面だけ、入学を許された者の義務を果たせと常に能力を実績で示すよう生徒に強要する傾向は教育者というより実利主義の実業家だ。 啓太の入学およびMVP戦に関しては裏事情を説明しても本人のためにはならないと冷ややかだ。
物事の真理を追求するより人と金を動かすことが好きなタイプ。
だが俺の後任として彼を信頼するしかない。
俺の決断を聞いて加賀見さんは珍しく心底驚いた様子だ。
「…どういう心境の変化かお聞かせ願えますやろか?和希はんはあれほど学園と研究所に熱意を持っておられましたやろ?」
テーブルを挟んで俺と向き合った加賀見さんは思慮深いまなざしに微かな好奇の色を浮かべて俺を見つめた。
「格別、理由はないですよ。また貴方のお手柄が増えますね?」
俺はおどけて軽く目を見張って見せた。
胸中は大切な物を置き去りにする後ろめたさと喪失感で荒涼としていたが、それには慣れるしかない。
「和希はんのご英断に私は関係ないさかい手柄話にはなりませんやろ?そんなことより覇気のない和希はんを見るのは初めてやから、これでも心配しとりますのや」
加賀見さんは微かに眉をひそめて俺を見守った。
他人の心情に立ち入らない彼にしては珍しいと思った。
だが心身ともに疲労しきった俺は、ゆったりと続きそうな話を手短に端折ることにした。
「ご心配いただいて恐縮ですが私は大丈夫です。社長には明日にも会って意向を伝えます。引継ぎも早急に済ませたいので明日からご迷惑をおかけすると思いますが、どうか宜しくお願いします」
淡々と型通りの口上を並べて頭を下げた俺に、彼はフッと笑いか溜息かわからない吐息を零した。
「和希はんがそうおっしゃるのやったらそういうことで、こちらこそよろしゅう頼みます…けど」
加賀見さんの不可思議な熱の籠もった視線が俺を捕らえた。
そのまま俺を見透かすように観察しながら
「…心を残さず行かれるよう願うとります」
ジワリと釘を刺すと優雅な一礼を見せて退室していった。
心を残さず…とは難しいことを言ってくれる。
でもこれで失って惜しい物は全て手放したと思うと皮肉な笑いが込み上げた。 後に残った物は全て足枷、義務…惜しくない物ばかりを背負う俺は身軽になったも同然だ。
翌早朝、俺は鈴菱本社の社長室で父と対面した。
父と急を要する話し合いは、この時間帯になるケースが多い。
「昨夜、加賀見も連絡をよこしたが、どうやら奴に関係なく決心したようだな。だが理由がないってことはないだろう?」
上機嫌の父は普段より寛いだ笑顔で俺を見た。
容貌こそ似ているがこの人は息子の俺とは全く違う価値観で生きてる人だ。
絵画や動物、美しい物には異様に目が無く博愛なのは結構なことだ。
自分では造り出せない美に対する執着が凄いとは母の観察だ。
「いえ、本当にお聞かせするような理由はありません」
俺は珈琲を啜りながら軽く受け流した。
「まぁ、自ずと本来果たすべき義務に目覚めたという心境でしょうか」
「…そうか。では、そういうことにしておく。後任は加賀見に新理事長として学園を引き締めて貰う。研究所はおまえの進言通り副所長が後任だ」
副理事就任以降、加賀見さんが学園に関して何を父に報告してきたのか察しがついて笑いたくなった。
「あの学園が天才をかき集めた単なるスパルタ校になりますか…」
「知っての通り私は先代やおまえと考えが違う。無償の教育もボランティアではないからな。あれはウチの高価な企業PR、それと鈴菱に役立つ人材育成の先行投資、スパルタで結構」
「社長は学園生をご存じないですからね。今の生徒による自治は子供と侮れないほど大したものです。
誤った締めつけで揺り返しに合わなければいいですが」
くだらないとばかりに父は一笑に付した。
「生徒を放任してお遊びに付き合っていては合理的な学園運営はたちいかない。おまえは金融に集中して後は加賀見に任せるんだな」
「無論そのつもりですからご安心ください。ついでにもうひとつ、あなたにとって朗報があります」
社長からあなたと呼び方を変えると父はピクリと眉を動かした。
「…何だ?」
「沙佳子さんとのこと、ご希望通りにさせていただきます」
父は一瞬、瞠目してから不審そうな面持ちでジッと俺を観察した。
「いったい、どうしたと言うんだ?」
「喜んでいただけるものと思ったのですが」
「…あんなに煮え切らなかったじゃないか?」
「立場も変わることですしここらで身を固めて心機一転ということですよ」
「理由は知らんが捨て鉢になってるワケじゃないだろうな?…本気か?」
「勿論、本気です。来年の春以降の挙式でいかがです?あちらにはまだ何も伝えてませんので今後の両家の調整次第ですが」
事務的に軽い調子で話進める俺を父は怜悧な目で探るように見ていたが
「…おまえが今も気が進まないのはわかっている…
何があったと言うんだ」
この無意味な質問に腹が立った。
別に俺を心配して聞いてるわけではなく、どんでん返しを嫌う仕事感覚の“確認”だ。
天変地異があろうと俺の公私に関して求めることは同じなのだから腹を打ち明けるなど時間の無駄でしかない。