MEGANE

□ゆっくりな恋
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 その日も、普段とさして変わりのない『普通の日』だった。仕事は忙しく、かと言って日常業務に差し支えるような重大なトラブルを抱えているわけでもなく。

 だから、御堂自身が子会社から引き抜き、新しく部下にした『彼』に問われるまで、『今日』が何の日だったかをすっかり失念していたのだ。




「開発チームが出してきたデータも、悪くないな」
「はい。来週の初めには試作品を形に出来るだろうって、川出さんが」
「そうか。試飲には君も参加してくれたまえ、佐伯くん。営業からの視点は色々とこちらの盲点を突いてくれて、重宝する」
「ありがとうございます。光栄です」
 柔らかく控え目な笑みを浮かべて報告書を受け取った彼は、御堂の前を辞そうとし、不意に思い出したように扉の前で振り返った。

「そう言えば……」
「何だ?何か問題でもあったか?」
「いえ、そうじゃなくて……。あの、プライベートなことをお伺いしますけど」
「プライベート?私の?」
「はい」

 こくりと頷くと、克哉は書類を胸に抱いた。

「部長、今日お誕生日なんですか?」
「誕生日……」

 克哉の言葉を繰り返しつつ、腕時計に目を落とす。そこには確かに、今日が9月29日である旨が表示されていた。

「………どうやら、そうらしいな………」
「やっぱり!先刻女性陣がそんなことを言いながら盛り上がってたから、ひょっとしてと思ったんですけど。………って、まさか部長、忘れていらっしゃったんじゃないですよね?」
「仕方ないだろう。祝われて嬉しいという歳でもないからな」

 くすくすと笑う克哉につられ、御堂も言い訳にならない言い訳と共に苦笑を唇に乗せる。

「お誕生日おめでとうございます、御堂部長」
「ああ、ありがとう」
「……でもオレは、お祝い……、い、んだけどな…」
「ん?すまない、聞こえなかった」
「い、いえ!何でも!!」

 僅かに慌てた様子で首を振る部下を見て、ふむ、と顎を撫でる。

「佐伯くん、今日の終業後の予定は?」
「へ?」
「何もなければ食事に付き合いたまえ。祝ってくれるあてもなく、誕生日を独りで淋しく過ごす上司を、少しでも哀れだと思う気持ちがあるのならな」

 にや、と唇を歪めると、克哉は驚いたように目を瞠り、次にはふわりと微笑んだ。


「はい。オレでよければ、喜んで」





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