MEGANE

□守るためのてのひら
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 カツン、カツン。乾いた自分の靴音だけが響く。克哉は手にしたレジ袋を持ち直し、キーを鍵穴に差し込んだ。
 エアコンを切らずに出掛けたせいで、部屋はホッとするような暖かさを保ったままだ。

「……ふぅ」

 しかし克哉の口から漏れ出た吐息は、肌を切るような寒さから解放された安堵からはかけ離れた、とても重々しいものだった。

 ……『あいつ』なら、待つ人のいないこの部屋にも当たり前のように「ただいま」を言うんだろう。同じ『佐伯克哉』でありながら俺とは何もかもが違う『あいつ』なら。

 急にいや増す飢餓感に舌打ちし、克哉はローテーブルに袋を置いた。無造作な扱いに、袋の中身がゴトンと抗議の声を上げる。
 どうしても飲みたくなって、しかし折悪しく切らせていたが故にコンビニエンスストアまで足を運んで買い求めたビールだ。
 だが、心地よく喉を通りすぎるだろう刺激にも、もはや食指を動かされることはなかった。そんなものでは止められない渇きを、満たせない飢えを自覚してしまったから。

 克哉は感情の揺れを抑えつけて煙草に火を点けた。そして自分に言い聞かせる。今のままで何が不満なんだと。




 プロトファイバーは今や国内だけに留まらず、世界を舞台に記録的な売上を誇っていた。
 8課もその功労者として高く評価され、特に克哉は年明け早々にもMGNに移籍することが決まっている。しかも御堂と肩を並べる、部長級という破格の待遇で、だ。
 かつて『佐伯克哉』を使えない男と見下し、嘲笑った輩が、今度は羨望と嫉妬の眼差しをもって同じ人物を仰ぎ見るのだ。醜悪で矮小な彼らの人となりを具さに見て幾度皮肉な笑みを口許に浮かべたか、もう覚えてさえいない。

 それに、恋人と呼ぶ存在が隣にないことにも克哉は特に困りはしなかった。夜の街には克哉の欲を満たす人間がいくらでも犇めいているからだ。
 確かに、仕事絡みで言い寄ってくる女も男もたくさんいた。だが下手に顔見知りに手を出して面倒を背負い込むよりは、後腐れのない連中を相手にする方が何かにつけて煩わしくないだろうと思ったのだ。
 克哉の目論見通り、気が向いた時に気が向いた相手を抱き、ビジネスに支障を来すこともない。ほんの僅か、胸に引っ掛かる何かから目を逸らしていれば、全ては順調そのものだ。


 ―――不満など、何ひとつないはずだった。
 なのに、何故こんなに心が疼く?




 まだそんなに短くもなっていない煙草を、苛々と灰皿に押し付ける。薄いブルーのシンプルなそれは、もうひとりの〈克哉〉がいつの間にか用意しておいたものだ。
 自分の意識を、自我を克哉に乗っ取られる恐怖の中で、『あいつ』は一体何を考えてこれをこの部屋に置いたのか。
 もう克哉にはわからない。克哉の中に〈克哉〉の存在は、疾うに感じられなくなっていたから。
 克哉に吸収されて消えてしまったのか、あるいは克哉に弾かれ、失われて二度と戻ることはないのか。どちらにせよ不快な虚無感が、じりじりと心を煎り付ける。

 克哉はレジ袋から転がり出ているビールを一本、手に取った。

「……酔えるとも思えないが……」

 大晦日の朝の街は、何かに急かされる慌しさと、古いものを脱ぎ捨てるような浮かれた空気に染め上げられていて。
 誰も知らない。気付かない。ひっそりと、ひとつの存在が世間から忘れ去られようとしていることを。

 こんな日に、らしくもなくマメに外出なんてするんじゃなかったな、と自嘲に唇を歪め、プルタブに指をかけた時。


 不意にドアフォンが来客を告げた。


 本多だろうか。確かヤツは帰省しているはずだが、しかし彼以外にこの家を訪れる人間の心当たりを、克哉は持ち合わせていない。
 面倒な時に面倒なヤツが、と眉間に最大限刻めるだけのシワを刻んで、玄関のドアノブに手を掛けた。

「何の用だ、本……」
「あっ、あのっ、ひ……、久しぶり、〈俺〉……」

 そこに所在なさげに立っていたのは。でかい図体でピンポン連打する『親友』ではなく、今にも消え入りそうに儚い笑みを浮かべた、もうひとりの自分だった。

「お前……どうして」

 驚きを隠せない克哉を見て、〈克哉〉は淋しそうに俯いた。

「気が付いたらこの近所にいたんだよ。懐かしくてつい来ちゃったんだけど……やっぱりお前には迷惑だったよな。ごめん、オレ、帰るな」

 顔を背け、逃げるように踵を返す〈克哉〉の腕を咄嗟に掴む。

「お、〈俺〉……?」
「何処へ帰るつもりだ」
「それは、お前の……んぅっ」

 ドアのこちら側に男を引きずり込み、有無を言わせず唇を重ねる。
 彼に触れた途端、ひび割れた心に温かいものが浸透してゆくのがわかった。克哉の細胞のひとつひとつが〈克哉〉は自分のものだと、〈克哉〉を放すものかと叫んでいる。



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