MEGANE
□陰に潜む影
1ページ/3ページ
「―――克哉?」
不意に立ち止まった恋人を訝しみ、名を呼んだ。だが私の声が届いているのかそうではないのか、背後を振り返ったままの彼は一点をただじっと見つめている。
そう言えば、先刻ひとりで退院して来たところを見つけた時も、彼はどこかぼうっとしていたようだが。あれも今の挙動不審な様子と何か関係があるのだろうか。
そこに何か特別目を引くものがある訳じゃない。強いて言うならば、春の柔らかな日射しを遮ったにしてはやけに色濃い陰が、克哉の足からまっすぐに伸びているくらいだ。
ひたすらに、克哉はそれを凝視している。かつて『接待』という名目の下に無体を強いた私に向けていたような、強く、激しく、清冽で、何者をも狂わせ、飢えさせかねない蠱惑的な瞳で。
―――それにしても、本当に美しい男だ。この日射しのように柔らかな笑みも抱き締めずにはいられなくなる泣き顔も、怒りに険しくなる表情すら私を魅了して止まない。
だからこそ。克哉にこのような顔をさせる存在が他にあってはならない。滅多に温厚な表情を崩さない彼の、実は豊かで雄弁なそれに気付くのが余人であってはならない。彼の全ては、私だけのものなのだから。
尤も、克哉に再びあの時の視線を向けられれば被る精神的ダメージは計り知れないと容易に推測できるから、私としても克哉を本当に怒らせる真似などする気はないが。
こほん、話が逸れた。
結論として私が今全精力を傾けて取り組むべきことは、克哉の懸念を分析し、いち早く取り除いてやることだろう。決して克哉の意識が私以外の何かに囚われていることが面白くないとか、そういう次元の話ではないぞ。ああ、決して。
「克哉? 克哉!」
「……え…っ?」
二度三度と名を呼ばううちに、克哉は我に返ったように顔を上げた。ぱちぱちと繰り返された瞬きのあと、淡い二つの光彩がのろのろと私の上で焦点を結ぶ。
「あ…、御堂さん」
どこか虚ろなその様子に、私は不安を覚えた。
いくら検査の結果に問題がなくても、最低限の入院だけで事足りて、無事に退院を迎えられたのだとしても。
彼は一度頭部を強打している。本人も気付かないところで彼の身体に異状が起こる可能性は皆無ではないと、誰が断言できる?
……病院に引き返して再検査を頼んだ方がいいかもしれないな。そうだ、そうしよう。
ぎこちない微笑を浮かべる克哉の腕をとり、引き寄せた。み、御堂さん、と躊躇いがちな、それでいて少々恥ずかしげな抗議の声が上がるが、斟酌などしてやるものか。
「どうしたんだ。気分が悪いのか? だったら今すぐ四柳に……」
「あ、いいえ。すみません……」
何でもないのだと、彼は笑いながら首を横に振る。
……気に入らない。何でもない態度か、何でもない表情か、それが。
無言でじっと瞳を覗き込むと、彼は観念したように一つ、大きな息を吐いた。それから先刻までの危うげなものから掛け離れた、穏やかに寛いだ笑みを口元に刷いて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「御堂さんは、もし誰かに『いつだって、あなたの影のなかにいる』って言われたら、どうしますか?」
「……影の、なか……?」
随分と不穏な言い種じゃないか。控えめに解釈しても、得体の知れない不気味さを払拭できない。
「……ストーカーにでも付き纏われたのか?」
「………」
眉間に皺を寄せた私の問いに、彼は申し訳なさそうに微笑むばかりだ。決して否定はしない。
ということは、私の想像は強ち間違ってもいない、ということなんだろう。
いつも心配を掛けまいとする健気な恋人が、こうして困り事を私に打ち明け、また作り物ではない柔和な笑み(それを判別できるのも私ひとりだけだと自負している)を浮かべているのだから、あるいはもう解決済みのことなのかも知れないが。
私は克哉の腕を放し、二歩、三歩と後ずさった。
「御堂さん?」
ああ、克哉。往来でそんなに無防備な顔をするなと、君は何度言えば。それにそんなに可愛く小首を傾げていては、件のストーカー以外にも目を着けられかねないだろうが。
色々と言ってやりたいことはあるが、取り敢えず。
「私の克哉にそんな馬鹿げたことを言う輩には……すまない、克哉」
「みど……っ」
呆然としている克哉を尻目に、右脚を大きく振り上げた。
・