Secret Garden  捧げ物と戴き物

□月
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側にあるはず、そう必ずや。傍らに、おのが傍らにそれはあるはずだと。
水面に晧く(しろく)映りさざめく月。それを手の平で掬い言挙げる、我が物よ、と言挙げる。煌々とさんざめきながら上天にある麗しき夜の支配者を。

「衣(きぬ)を。」
白々と明けて行く夜。やがて薄紅の東雲に覆われる東の空に頼りなく、臥所(ふしど)に落とされ忘れさられた耳墜(じつい)のように引っ掛かかった三日月を見上げる男の背に遠慮がちな声が掛かる。決して強くはないが柔らかく、明け方の冷気に裸の背を晒した男を本当に気遣っている事を感じさせる声だ。それがほんの一刻前には自らに抱かれて身も世もなく啜り泣いていた人の声と同じだとは思えなくて、月を見上げていた男は自分の背後から声を掛けて来た者の手を捉まえる。彼の裸の背に単衣を掛けようとしていたらしいその人は、腕を掴まれて寸の間身を固くしたが、直ぐに諦めたように力を抜いて自分を引き寄せる男に我が身を委ねた。
「冷たいな。」
捕まえた人を正面に回し抱き寄せながら、月を見上げていた男は曙光に濡れる天から腕の中の人に視線を移す。己とは違い既にきちんと単衣を纏ったその人の、白い頬に指を這わせた。そうする事によって、情交の僅かな名残さえ残さぬように見える、冷たく整った顔立ちに自分の傷痕を無理に探そうとする。諦めたように身を委ねたはずの捕えられた獲物が微かに笑い、自らの頬を這う男の指にそっと自分の手を重ねた。
「主の方が、冷たいと思いますよ?」
「そうか?」
手を重ねられる事によって温もりを与えられながら、動きを封じた指先の代わりのように、男は抱き寄せた人の瞳に唇を近付ける。異国に産する美しい紫水晶を思わせる深い瞳が、彼を一杯に映してからさんざめき閉じられた。震える長い睫毛の先に、朝露と共に男の唇が下りて来る。但しそれは明らかな熱量を持って、抱かれた人の瞳をさえ焼き焦がそうとしていたが。瞳を開けたまま抱いた人の目蓋に口付けている男は、彼の唇が僅かに開き何かを訴え求めているように、わなないているのに気付く。
そうして堪らない寒さを感じた男は、己が与えた熱を取り戻すべく腕の中の彼の綺麗に着付けられた単衣の襟元を乱暴に寛げた。突然の求愛に彼の躰が小さく跳ねる。目蓋が震えて開けた瞳の中に再び明瞭(はっきり)と男の姿を映した。それでも彼は反抗しない、ほんの少し躰を固くしただけで、そのままに男の腕の中に在る。曝け出された彼の上半身には、明け方の頼りない月光の下でさえはっきりと分かる、薄紅の花々が処々に咲いていた。中には薄紅ではなく本当に紅の血を流している痛々しく見える花もあったが、今は彼の顔が苦痛に歪む事は無かった。僅かに震えているのは明け方の冷気に素肌を晒された為か、それともこれから急激に送られるであろう熱量に怯えているのか。男の唇が浮き出た鎖骨に触れると、又彼の躰が僅かに跳ねた。
「矢張り、お前の方が冷たいよ?」
「そう、ですか?」
軽く結わえられだけで乱れたままの男の髪が、彼の白い肌にゆらゆらと零たれる。その感触が擽ったいのか、彼の唇が少しだけ綻んだ。与えられる熱量を惜し気なく奪って、自力で輝く事の出来ない夜の支配者はそれでも尚、深き闇の王であり続ける。
するり、と彼の手が獲物を締める蛇のように男の首に巻き付いた。抱いているほど抱かれているようなら何故、思い切れはしない?まだ冷たいままの彼の手に誘われる(いざなわれる)儘、男の脳裏に揺らめく小さな疑問。彼は己の式神だ、己だけが呼び出して使役出来る存在。己には決して歯向かわないはずの墜ちた無力な神、それなのに。
「……。」
男の唇が鎖骨をなぞると彼は忠実に身悶えて、揃えられていたはずの単衣の裾を自ら乱すように片足を立てる。割れた裾から覗くのは今までそれを隠していた麻の単衣より白い足。男を誘うように、片方だけその足を付け根まで白々とした曙光に晒す。
「ああ、お前の方が冷たいよ、太裳。」
支配しているのは自分、けれど求めているのも自分なのだ。男は彼を、太裳を抱く度にそれを自覚させられる。彼が自分を受け入れて熱く喘ぎ、のた打って血を流しながら啜り泣く事はあっても、結局抱かれているのは自分なのではないかと、彼の白い躰に如何ほどに傷を残そうと、何も留められていないのではないかと、そう思ってしまうのだ。
「いいえ。」
震え始めた声で、彼、太裳が否定する。自分から足を拡げながら。
「冷たいのは貴男ですよ、晴明様。」

天空にあれど我が物よ、と言挙げす。水面に映りしそれを掬い言挙げる。月は無慈悲な夜の支配者。地上の誰かが我が物と呪を掛けても、一時その場に憩うだけ。

end

注釈 耳墜とはイヤリング、ピアスの事です。

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