泡沫  夢短編集

□日常の欠片 シェスタ 完
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椿が散り水仙が目覚め、梅が咲いて桃が零れ桜が舞う。藤が揺れ躑躅映え菖蒲入り乱れて。湖面には睡蓮がたゆたい、一際匂い立つは百合の花。
春夏秋冬、季節は巡り花神がその寵を惜しげなく運んでくれる庭園。時折意地悪をするが花々の味方であろう封伯とその眷属が通り過ぎるその場所は、今は薔薇が盛りと咲き誇る。手に一杯花を抱える事が許されるのは、平和の象徴でもあるのだろう。血臭と暴力の中で花の姿と香りを愛でられるはずもない。与えられた静けさを愛惜しむように、その静寂と妙なる芳香に包まれて。
「起きておられますか?天蓮。」
「ああ、うん。」
小さな呼び掛けに閉じられていた目蓋がけだるそうに開く。その瞳と同色に近い黄金の剣のような陽の光に目を細め、薔子は寄り添っていた太裳に視線を向けた。だがそれも一瞬で相当眠いのか、彼女はすぐに瞳を閉じてしまう。僅かに上げた顔も再び恋人の胸に戻してしまった。しかし眠った訳ではないようで、そのままの体勢で先程よりはっきりとした声で返事をする。
「なぁに?」
「申し訳ありません、お休みの邪魔をしてしまいましたようで。」
「良いけど?」
太裳の謝罪に薔子は軽い調子で返答する。顔を上げないのは眩しいからか彼に甘えていたいからか、本人にしか分からないだろう。
「貴男なら呼んでくれて構わないわ、思蘭。」
「嬉しい事を、有り難うございます。いえ、他愛ない疑問を思い出したのですが、貴女様の御名は矢張りこの花からで?」
「半分は、そうじゃないかな。」
「半分?」
自分だけは特別だと恋人から聞かされて、それを嫌がる者は少ないだろう。自分の腕の中に収まるようにして抱かれている薔子を見つめる太裳の穏やかな笑みが、見るからに幸福そうな甘い物に変わる。彼女の長い髪を飾る一輪の花簪は、今を盛りと咲き誇る白き大輪の薔薇。薔子には真紅も似合うが、髪や瞳と同色に近いそれだけでなく対極のような純白もよく映える。丁度彼女の恋人が身に纏う、六出(りくしゅつ)の神を思わせる衣裳のような白も。その花簪と髪に指触れながら太裳が問い掛けた事に、薔子は曖昧な答えを返した。恋人に縋っていた手を片方だけ外し、彼女はそれを自分の髪に触れる指先に伸ばす。
「この髪と瞳に合わせたらしいわ。名はそれの日本語訳ね。まぁ、この色自体は父譲りなのだけれど。」
「ああ、矢張りそうですか。では、父上が授けて下さった御名はローズ?」
「あれ?言ってなかったっけ。」
混血である薔子には和名であるその名前の他に、もう一つ名前があるのではないかとは神将達の誰もが思っていた事だ。けれど実生活に於いて父親の影が殆んど見られない彼女に、それを訊くのは何となく憚られた。彼女に美しい名前を捧げた太裳ですらそうだ。今日のように珍しく彼女が寛いでいて、其処が薔薇が盛りの庭先でなければ、それに乗じて訊こうとはしなかったろう。只、本人にとってそれは大した秘密ではなかったようだ。彼女は姿勢を変えて起き上がり恋人の首に腕を回す。その名前の由来になった花々のような豪奢な微笑みを彼に向けた。
「ローズではなくローザよ。ローザ・マリア。マリアは洗礼名だけどね。」
「ローザ、ですか。え?洗礼名。貴女様はクリスチャンだったのですか?」
「父がカトリック教国の者だから、生まれた時に否応なく洗礼をね。そんなに驚く事?」
「いえ、あの、クリスチャンの陰陽師というのは有りかと。それにあの宗教は他神を認めないのでは?」
「そうね、でも両親の結婚の都合上の事だし、わたしが望んで教徒になった訳ではないから構わないわ。まぁ、わたしが熱心なクリスチャンなら貴男を選べないでしょう?思蘭。わたしが一番信じている神様は貴男よ。」
太裳の少しズレた言葉に、告白とついでのように不遜な言葉をさらりと放って、薔子は彼の首に絡めた腕を引く。逆らわずに自分を抱いてくれる異教の神、但し自分から選んだ神の柔らかい青磁の髪に、そっと唇を触れた。その彼女を抱き返す腕に力を込めて太裳がこう囁いた。
「そうですね、けれど貴女様が信じる神は私一人で構いますまい?私の天蓮。」
初夏の風、揺れる。芳しき(かぐわしき)百万の花々の園にて。花の女王の名を持つ娘は自分が捕まえた神と共に。この夢だけが何時までも続く事を願うのだ。


fin

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