チェシャ猫と歌う恋のトロイメライ【1】

□act10 私達の知らない私の過去
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夜間という時間帯だけあってか、人もまばらな待合室は静かそのものだ。
白亜の広い空間に設置された横長の硬いソファーにボリスとマシロは隣り合って座っていた。


「落ち着いた?」

「……はい」

「そっか。ならいいんだけど」


何がいいものか。何が大丈夫なものか。
ぐったり項垂れるマシロの表情は解からない。解からないが、パジャマのズボンをぎゅっと握りしめている。手の甲に雫が落ちて伝う。


「マシロ……」


なんで、こんなことになってしまったのだろうか。
愛おしさと独占欲、喪失への不信感と疑惑から彼女を世間から隠したと言うのに……。
マシロとて受け入れて、望まれて閉じ込められたのではないのか? その結果がこれだとでも言うのか。
名前しか呼べない歯痒さに人知れず落胆していると、黙秘を貫いていたマシロが消え入りそうな声で呟いた。


「気持ち悪い……?」

「まだ吐きそう?」

「……違くて、私のことが……」

「……ああ、そういう……」

「きらいになった……?」

「ならないよ」

「ほんとう?」

「本当。俺はあんたに捨てられても、あんたへの気持ちを捨てられなかったんだ。今更あんたを捨てようなんてできっこないよ。それにさ……」

「……それに?」


マシロはちらりと顔を上げる。ボリスを盗み見る視線は揺れていた。
泣きだしそうな顔はある種の恐怖(否、不安だろうか?)が色濃く浮かんでいる。
そんな眼を向けられる意味が分からず、ボリスは呆れて肩を竦めてしまう。


「叫んで起こされたってゲロっちゃったって……受け止めてあげるって言っただろ。俺のこと見くびらないで」


やや小馬鹿にした口調で言い聞かせてやると、マシロは泣き顔にくしゃりとした笑みを浮かべた。
それから「ありがとう、ボリス。ごめんなさい」と、ありとあらゆる感情にまかせて言葉を繋いでゆく。
こんな私を受け入れてくれて「ありがとう」、捨てないでくれて「ありがとう」、嫌いにならないでくれて「ありがとう」、迷惑をかけて「ごめんなさい」……。
押し寄せる気持ちはとても一言では表せなかったけれど、マシロはボリスに救われる思いでいっぱいだった。
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