チェシャ猫と歌う恋のトロイメライ【1】

□act9 チェシャ猫とシンデレラ
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●喧嘩


数時間帯ほど前のことである。
会合に参加すると言って外出したボリスが戻ってきた時の話しだ。
空間を切り取られた客室で独り留守を預かっていたマシロが、そのいでたちを目に留めた途端、遅い帰りを待ちわびていた顔から表情が消え失せた。
ボリスはばつが悪くなり、苦い顔をしてしまう。


(そんな顔しないでよ)


二の腕を穿つ銃創から血が滴っている。これでも出血は治まった方なのだ。
役持ち総出のイベントを好機と考えて襲いに掛かる輩は後を絶たないのだが、そんなものは理由の内に入らないのだろう……
マシロは表情の失せた顔で、しかし剣呑な視線をボリスに突きたてるばかりである。


「日課の自殺未遂ですか」

「はっ!? なんだそれ!?」

「撃ち合いが遊びとか言っちゃうんだからそうですよね、ボリスさん」

「その呼び方はやめろって!」

「じゃあピンクさん」

「ピンクって呼ぶのもやめろよ! あのさ、マシロ。今回は遊びじゃな―――」

「自殺願望者」

「マジでそんなんじゃあないってば。なぁ、マシロ、俺の話し聞いてよ」


凹凸のない響きで単語を吐き捨てるマシロに、ボリスはただただ弁明の言葉を並べて取り繕う。
だがいくらご機嫌をうかがってもマシロの表情は一片も揺るがない。
やっと口を開いたかと思えば、出てきた言葉はやはり単調なものだった。


「嫌い」

「マシロ?」

「……そういうところが嫌いだって言ってるのよ……!」


絞り出す言葉にボリスの息が詰まってしまう。


「……なんて言ったの?」


今なんて言ったのか?
嫌い? 嫌いと言ったのか?


まるで時を止められたかのように身体が動かなくなってしまう。


(好きって言われる前に……嫌いって言われた……!?)


ふわっとした意識の中、漠然とそれだけを理解した。
ボリスは震撼する唇を開いてやっと舌に乗せた言葉は、それまで並べていた言い訳でも弁明でもなかった。


「……なに? また俺から逃げる口実かよ?」


音声化した言葉は発言者の思考回路ほど沸騰していなくて、自分でも驚くくらい冷静なものだった。
冷静すぎて、凍てつくくらいの冷たい言葉を投じられたマシロは、瞳をゆっくりと見開いてゆく。
解り辛いけれど、少なからず動揺しているようだ。


「違う……そんなつもりじゃ……」

「……何が違うんだよ。嫌いになったからまた帰るんだろ?」

「違う!」

「また俺を置いていく気だろ!?」

「……っ!」


柄にもなく怒声を張ってしまった。
一喝されたマシロは氷細工のように微動だにせず、驚愕の表情でボリスを見上げている。
しかし、それは束の間のことで見開いたままの瞳に涙がにじむではないか。
ほろりほろりと静かに落涙するマシロに、ボリスはやってしまったと後悔の念にさいなまれた。
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