チェシャ猫と歌う恋のトロイメライ【1】
□act13 四月の初めは嘘つきの日
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「やめて!」
そう叫んだ自分の声に驚いて、マシロは覚醒した。
混乱する頭で現状を理解することは難しかっただろう。
『ここ』が見覚えのある室内だと言うことに気づくのは少々時間を費やしてしまった。
(ここは……ボリスの部屋……?)
目に映る景色はとても見覚えがあり、そしてとても懐かしいものだった。
そう、ずっと帰りたかった場所だ。やっと戻ってこれたのか?
「……マシロ? また怖い夢見たの?」
甘やかな声が耳朶に優しく触れる。
そこでマシロはそのぬくもりに気付いた。
男性にしては高めの体温が自分の掌に重ねてあるではないか。
「ボリス?」
ベッドに上半身を預けた体勢でカーペットに膝をついていたボリスが、困惑した表情でマシロを見上げていた。
丸くしている瞳には警戒心もなければ好奇心もなく、在るのは気遣いだ。
心配していると言った風情に、きょとんとしていたマシロの眼元からしずしずと涙が落ちた。
熱い感情が頬を伝う。
「あなたなのね……?」
たどたどしく伸びる指先が、ボリスの輪郭に触れる。
肌をなぞるそれは恐る恐ると言った所作だった。
「おかしなこと言うね。どうしたの? 突然泣くなんてさ」
―――泣き虫だよね、あんたって。
そう言ってボリスは目を細めて笑いかけてくれるのだ。
それがひどく懐かしくて、もしかしたらもう二度と逢えなかったかもしれないぬくもりをなおも追い求める手指の動作は、落ち着かない様子だった。
「なんでも……なんでもないの。ただ……すごく安心しただけ」
「安心?」
「そう。あなたが傍に居てくれたからホッとしたの」
「俺が死んじゃう夢でも見ちゃった?」
「違うよ……違う。寂しかったけど……最後は大円団だったし、それに」
「それに?」
マシロは目尻に貯まっていた涙を指で払うと、いつものようにぎこちなく笑った。
「目が覚めれば『あなた』が居てくれた。それだけで私は幸せなの」
こんな風に、ボリスに笑いかけてくれる日々にまた戻れたことがとてつもなく嬉しかった。
いつしか当たり前になっていた幸福感を、マシロは噛みしめて味わう。