チェシャ猫と歌う恋のトロイメライ【1】

□act1 とある世界線
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――ここじゃない。


カーテンで閉ざされた部屋にうずくまる影は、膝を抱え、力なく項垂れていた。
いつもそうだ。


――ここはちがう。



頭の中でずっと否定するのは、現世そのもの。
いつもそうだ。


――お姉ちゃんがいない。



死んだことさえ忘れ、待っているとばかり思っていた元の世界に帰ればひとりぼっちだった。

家族がいない。大人がいない。
生きる意味の喪失に身も心も腐ってゆく。


――ボリスさんがいない。



いつもそうだ。
大切な時間を自分から捨ててゆく。愚かなのだ。なにもかも。
毎分毎秒時間はすぐ過去に流れてゆく。決して止まらない。
真白は時間に取り残されている。時間に縛られ、『今』を大切にできない。


いつもそうだ。

自分は変わらない。
変われない。
成長できない。



いつもそうだ。


「ボリス……さん」



嗚咽が止まらない。
涙なんて、もう枯れてしまった。
けれど、肩が震えてしまう。
シニカルな笑みを刻んだ顔は今でも鮮明に思い出すことができる。
ピンク色の髪から覗くトパーズの瞳はいつも自分をからかってくれた。

針の音に耳を傾ける。


『俺のために生きてみない?』

『俺はあんたのことが必要なんだ』

『俺のことだけを見て』



忘れてしまいたい。忘れたくない。忘れてしまいそう。
忘れ忘れる忘れられ忘れたくない。


記憶にしがみつく。
これだけは、忘れたくはなかったのだ。


「ボリスさん……ボリスさぁん……ッ」



幸福の重さを手放してしまった。
いつもそうだ。

自傷もできない臆病者のくせに、今は死さえ求めている。死と生の間で迷っている。
足下の大量にばらまかれた錠剤と視線が重なった。



『おいで――こっちへおいで』


声が聞こえた。
真白は咄嗟に耳を塞いだ。
大方いつもの幻聴だろうか。
幻覚さえ視えてしまう精神状態なのだから、慣れっこだ。
いつもそうだ。そうなのだ。
だけど、呼びかける声はいつまでも止まない。


『マシロ、おいで』

『扉を開けて』

『こっち、こっち』

「やめっ……やだよぉ……ッ! やめて!」



秒針の音が、やたら大きく響いた気がした。
声はいつの間にか消えている。
その代わり、木が軋む音が鳴る。
見ると観音開きのクローゼットが開いていて、中身には衣装ではないものが「映って」いた。


「ぇ……」



昏い眼を見開いて、そこを見つめる。
クローゼットの向こうは森が広がっていた。
青空と生い茂る木々の間から覗く装飾過多の赤い尖塔(せんとう)には見覚えがある。


「ハートの……お城?」



見覚えがあるのも当然だ。
かつて滞在を許してくれた場所にとてもとても似ていたのだから。


よろよろ立ち上がる。歩み寄る足取りにも力がない。
だけど、惹きつけられる。
記憶にすがるように、しがみつく思いで手を伸ばす。


時間にがんじがらめに捕らわれ、今この瞬間を大事にできなかったけれど、もし――もしもだ。


(もし、また逢えることができたなら……)



今度こそ、大切にしよう。
誰にも褒められなくていいから――自分に生きている価値が見いだせるなら、もう迷わない。










act1 とある世界線
(2016/01/15)感想は掲示板かメールまで。
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