今こそわかれめ、



ひゅーっと、南風が顔面を荒っぽく撫でていく。少し伸びた前髪が向かい風に舞い上がり、視界が広がる。

開け放った窓から見下ろすグラウンドには、野球部の白い姿がダイヤモンド型から広がるように散らばっている。金属バッドが白球の芯を捉えた小気味いい音が、少し遠く耳に届いた。白球は、外野を遥か越えて綺麗な放物線を描いて飛ぶ。その特大の一発を放ってベースを回る、目深に野球帽をかぶった打者は、高く掲げた拳をこちらに向かって一度強く突き上げた。

随分暖かくなったが、足元にはまだ少し肌寒さが残る。春を迎えたばかりの季節特有の、どっちつかずな冷気に思わず肩に羽織った学ランを引き寄せ、僕は大きな窓を閉じた。

窓に背を向けると視界を占めるのは、見慣れたデスク、見慣れた応接セット。今朝、埃ひとつ残さないように拭ったデスクマットに一度指先を落とす。特段感慨深さは感じなかったが、これからもこの部屋に在り続けるそれを少し羨ましく思い、少し長い瞬きをする。

瞼を上げた僕は腕に馴染んだ腕章を、制服の袖から引き抜いた。綺麗な金糸で刺繍された文字がきちんと見えるように折りたたみ、デスクの上に置く。胸のうちだけでひとつ、別れの言葉を告げた。

この部屋を後にする準備は整った。僕は窓際からドアへ、部屋を縦断するように大股に歩いて、がらりと引き戸を引く。振り返ることはしない。

開けた瞬間、目の前を白い割烹着に三角巾姿のおさげ髪が何やら叫びながら走り去っていた。その手に握られていた岡持ちに眉を顰める。まったく、校内にラーメンの出前など。春休み中といえ緩みすぎだが、もう自分が関与するものでもない。この腕にはもう腕章はない。

応接室から足を踏み出した僕は彼女と逆の方向へと進む。次の学年が始まる前の校内は、部活動をする生徒も少なく人影はまばらだ。この廊下にも、人の姿はない。がらんとした教室の横をずんずんと進む。リノリウムの床をぺたぺたと靴音が響いた。

だが、ひとつ階段を下りると、人の声がした。そのまま一階まで下りるつもりだったが、興味を引かれ、つま先の向きを変える。声がしたのは階段から一番近い場所にある教室。戸についた窓から室内をのぞくと、中の人影は机に向かう少年が二人と、赤ん坊が一人。やけにしゃれたスーツを着込んだ赤ん坊は、窓側の少年を監督するようにその前の机の上に乗っかっていた。
「あー無理!補修の課題多すぎだよ。こんな量絶対終わらないよー」
「泣きごといってんじゃねぇぞ。おまえも来年は高校受験あるんだからな」
「初代、がんばってくださいっ!オレも全力で応援の祈りを捧げます、山の神に!」
ああ。相変わらず騒々しい。正体が分かればなんのことはない、いずれも見慣れた顔の、ただの草食動物だ。正体が分かれば興味が失せて、再び階段へ向かおうと方向を変えたとき、室内にいた赤ん坊がこちらに目礼をひとつ送ってきたので、僕は小さく口角を上げた。訂正がひとつ必要だ。あの赤ん坊はいつか倒すべき猛獣だった。

とんとんとリズミカルに足音を響かせながら階段を下り始めると、
「極限に階段ダッシュだ!」
馬鹿みたいな大声が階下から木霊した数秒後、首からタオルを下げた短髪の男が膝を高く上げながら階段を駆け上がっていくのとすれ違った。下りていく自分と、上っていく彼。たった一人のボクシング部員も、もうそう長くはここにはいられない。名残惜しく、思っているのだろうか。そう考えて、すぐに否定する。あの男のこと、ただいつも通りのトレーニングをこなしているだけに違いない。

あまり日の当らない一階は、特に人気のなさが際立っている。その分足元の冷たさも増しているような気がする。校舎を出るまであとわずかだが、進む足取りを弛めることはせず、これまでと変わらない歩調で下足室に向かう。

ずらりと並んだ下駄箱の列から、自分の名前が書かれたひとつの前に立った。目の高さにあるその箱から、少しくたびれた革靴を取り出すと、そっと上履きから履き替えた。どちらも足に馴染んだ靴だが、今脱いだ靴はすぐに、今履いた靴は近いうちに、不要になるだろう。

脱いだ上履きを出口横の大きなゴミ箱に無造作に放って、僕は校舎を後にした。

「ツナさんお勉強進んでいるでしょうかー?」
「春休みなのにツナくんがんばってるよね。差し入れ、喜んでくれるといいな」
「ランボさんねーはらぺこなんだもんねー!」
「あとで、みんなでお弁当食べましょう。」

校門に向けて歩く途中、これもまた騒がしい一団が歩いていくのを見送った。一人は生徒だが、他の三人は部外者だ。知らぬ顔ではないが、まったく堂々と校内に侵入してくれる。考え始めて、すぐに頭を振った。肩に羽織った腕章のない学ランを春風が揺らしていく。

どこまでも穏やかな陽光で表情が緩みかけたが、不意に凶悪な視線を感じて歩みをとめた。校内と校外を隔てるフェンスの向こう側から、大嫌いな幻術師の気配。嫌悪と同時に、戦闘への期待で興奮が一気に沸き立つ。腕に仕込んだ愛用のトンファーに指を滑らせながら、視線の方向をきっと睨みつけた。

が、目を向けた途端、その気配は消え失せてしまった。暫くその場に留まって辺りを探ったが、残り香すら感じられない。何の気まぐれでこの街にやってきたのか。理由があるのか、それともただの僕への嫌がらせか。おそらく後者だろう。まったく、つくづく気に食わない男だ。いずれ必ず、咬み殺す。

僕は決意を新たに、と同時に幻術師のことは頭の中から追いやって、校門へ向かって歩き始めた。

校舎から伸びる道に沿うように桜の銀の幹が並ぶ。桜のつぼみがほころぶまでは、もう少し。どことなく、枝の先に膨らんだつぼみが薄紅の色を帯びているように見える。花開く前の桜の樹が樹皮の内側まで花の色に染めるというのは、どの学年の国語の教科書に載っていた文章だったろうか。

一歩ずつ、校舎から離れる。振り返ることはしない。

何度も、風紀委員として立った門前。内側から外側へ踏み出すときも、僕は何事もないようにいつも通りに境界線を踏み越えた。

並盛中学校。その文字が刻まれた校門から、僕は外へと歩き出した。これまでおとなしく胸ポケットに収まっていた黄色い鳥が、不意にふわりと飛び立って、頭上をくるくると舞う。

彼が口ずさむのは、母校の歌。

そう、母校だ。僕はもう、ここの生徒ではない。立ち止まって、ついに堪らず振り返った。広いグラウンド、白い校舎に綺麗に並んだ大きな教室の窓。そのうちのひとつは応接室のものだ。視線を上空へ跳ねさせて屋上の昼寝の心地よさを思い返せば目が細くなる。短くも長く、やはり特別な時間だった。

僕は、肩にかけた学ランをそっと脱いだ。白いシャツ一枚になると、一層肌寒さが身にしみる。

そして、どっしりと立つ校舎に向かって一礼した。

「恭弥。」

深々と下げた頭を上げたとき、背後から僕を呼ぶ声が響く。耳に馴染んだ声音。

「恭弥、卒業おめでとう。」

僕はまだ校舎と向き合ったまま、背中に祝いの言葉を受けた。振り返らずとも、そこに誰が立っているのかはわかっている。ゆっくりとした3歩で、男は僕のすぐ後ろまでやってきた。

「いくら春先でも、まだこんな薄着じゃ風邪引くぜ」

そう言って男は、シャツ一枚きりの僕の肩に自分のコートを羽織らせた。ファーがついたそれは、もう季節外れだ。

それでも僕は、コートの襟をぎゅっとつかんで引き寄せた。

ひとしきり歌い終えた鳥がぴっと短く鳴いて高度を下げる。彼は再び僕の肩へと舞い戻った。

「ねえ、車で来てるの」
「ああ。そこの角に止めてあるぜ」

そうか、それはいい。僕はくるりと踵を返し、校舎にあっさりと背を向ける。

漸く男の姿を振り返った視界の中にとらえて、わざと不機嫌な表情を作ってみせる。

「僕、おなか空いてるんだよね」

ふ、と息をひとつ吐いた男は、大きな掌でくしゃりと僕の髪を撫でた。わしゃわしゃとそのまま頭を掻きまわされる。

「じゃあ、卒業祝いにハンバーグでも食いにいくか。」
「悪くないね。目玉焼きがのってるのがいいよ」
「もちろん!」

にかっと、音がしそうな笑みになった男が、僕の手を引く。僕の代わりにシャツ一枚になった腕が目に入り、自分の腕に力を込めるのをやめた。今日は、振り払わずについていってやろう。

引かれた手に導かれて足を踏み出す前、さようならと、心でひとつ呟いて、僕も笑った。




end.
(130318)


たくさんの有難うを。

ひょう丸


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