words


□濡れた指先、梅の花。
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久しぶりに帰ってきた母国は、春待つ冷たい雨に濡れていた。

3ヶ月ほど滞在していた仕事先のイタリアでは温暖な地中海の気候ゆえに曇り空さえ珍しかったから、余計にこの天候は気が滅入る。

空港から乗ったタクシーが故郷であり、今なお活動の拠点となっている並盛の街に近づくほど雨はいよいよ本降りの感を強くし、ワイパーが激しく左右に動く。車体を打つ雨音の大きさが耳障りで、運転手にラジオの音量を上げてもらった。

雨滴で見づらい窓越しに街を眺めていると、差し掛かった商店街にちょうど実家の寿司屋の看板が目に入り、思わず車を止めてくれるよう声を上げかけたがすぐに思い直して口をつぐんだ。父親に今何をしているのかと問われても、暗殺の仕事をこなしてきた後では答えられるような答えがない。上手い嘘でもつければいいがそれほど器用ではないし、またたった一人の肉親はそんなもの簡単に見抜いてしまうだろうと思った。

車は水しぶきを上げながら、商店街をすり抜ける。

目的の場所へ向かって住宅街に入ると、少し遠めに母校並盛中学の校舎が見えた。いつもは気にも留めないのに今日に限って無性に懐かしく思えて、オレは今度こそ声を上げて車を止めさせてしまった。

「ここでよろしいんですか、お客さん」
「ああ。サンキュな、おっちゃん」

釣りはいらない、と付け加えて運転手に万札を渡してタクシーを降りる。だが不安そうな運転手の視線を感じたので、気にするなと窓から一度笑顔を向けておいた。

タクシーの排気音が雨音を抜けて低く響く。

細い雨に煙る町に滲むテールライトを見送って、尖った革靴の爪先を並中のほうへ向けた。傘は持ち合わせていないが、濡れることは昔から嫌いではない。

かつて友と共に通った通学路を、一人踏み締めて歩く。今も拠点となっている並盛の町だが、アジトがあるのは市街ではないからこうして市中を自分の脚で歩くのは久しぶりだ。周囲の建物が随分小さく見えるのは、あの頃と比べれば自分がでかくなったせいなのだろう。

煤けた長い塀に沿って歩けば、やがて校門が見えてくる。休日とあってしっかり施錠されているが、乗り越えるくらい自分にはわけないことだ。手やらスーツやらが汚れるのも、決して弱くはない雨の中傘も差さずに歩いて来たことを考えれば今更だろう。

躊躇うことなく門の上側をつかみ、後は全身のバネを使って一息に身体を跳ね上げた。現役の学生だった頃にも何度かこうして門を越えたことがある。門の内側から外側へ、部活の後疲れきってうっかり居眠りをして門を閉められてしまったときには、誰かに見られはしないかと内心びくびくしながら脱出したものだ。

内側の地面にすとんと身体を下ろすと衝撃で小さな水しぶきが上がった。おそらくズボンの裾は酷いことになっているだろう。

ぴしゃりぴしゃりと歩くたびに水滴を跳ね上げながら進めば、昔とほとんど変わらない校庭の風景に思わず時間が逆戻りしたような感覚を覚えた。雨が川になっているところを避けて、土のグラウンドに足を踏み入れる。白球を追って無心に駆けていたあの頃感じていた広さは今はもうわからなくなっていた。ごく普通のサイズの中学の校庭、そうとしか感じられない、つまらない大人になったものだと苦笑する。

片付けそびれたのか、外野にできた泥水の水溜まりの中に野球のボールが一つ、寂しげに転がっているのが目に入り、思わず手に取ってしまった。薄汚れたそれは、置き忘れた自分の夢のようで自然と眉間の皺が深くなる。

不意にそこから校舎の方を仰ぎ見れば、目に入るのはかつて何度も見上げた応接室。その窓辺に気まぐれに立った先輩の姿をつい探してしまう。

「…ヒバリ」

呟いた彼の名は唇によく馴染む。


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