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□2月3日、午後4時。
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「ボス、いいかげんに元気だせよ。」

苦笑交じりのロマーリオの声が頭上に響いても、オレはデスクに伏せた顔をあげることができなかった。

手の平には、力をこめて握りすぎたためにくしゃくしゃになった航空券。だが、オレが乗るはずだったその便は、30分前にイタリアの地を飛び立った。だから、この手の中にあるのはただの紙切れ。もはや何の価値も無い。

恨めしい思いでそれを見遣るとまた泣きたい気持ちが込み上げてどうしようもなかったから、ひしゃげた券をさらに丸めて放ってやった。

特に狙うでもなく投げられたそれは、広口の屑籠の縁に当たって床の上に乾いた音を立てた。立ち上がってもう一度捨て直す気力など到底ないオレが小さく舌打ちだけして放置していたら、呆れ顔のロマーリオが代わりにきちんとごみ箱に納めてくれた。

「今回はしかたがなかったんだ。諦めな。」

わかっている。飛行機に乗れなかったのはオレの落ち度じゃない。

全て全て、身勝手な取引相手のせいだ。


朝一番に始まった大切な商談。地域の地主との土地の貸借契約の更新の話し合いだった。

3ヶ月前から双方協議の上で日取りを決め、この日に向けて書類の用意もきちんと進めてきた。

それも全て、この非合法の取引が速やかに済むように、だ。

そうして何もかも段取りされていたというのに。

親から受け継いだだけの財産を浪費するばかりの生活をしている典型的な坊ちゃん育ちの現当主は、今日が自分の恋人の誕生日だからどうしても祝ってやりたいと勝手に約束を放り出して恋人の元へ行ってしまった。

いくら書類を整えても、オレとあちらの当主、両方の直筆の署名がなければ契約は成立しない。今日中に正式に契約更新できなければ、ファミリーの戦闘訓練所として借り上げている土地を一時的にであるにしても使えなくなってしまう。今時あれだけ広大な土地をただ遊ばせている地主などそうそういないから、代わりを探すのもまず不可能だ。

あちらの屋敷に着いてから知らされた当主不在という信じ難い事実に驚愕と憤り、それらを通り越した滑稽さまで覚えながらも、この件に関して他に選択肢のないキャバッローネとしてはわがままな当主が帰ってくるのを待つしかなかった。

執事や秘書から何度も謝罪を受け、息子の勝手に怒り狂う先代を宥めて過ごす時間は居心地が悪く、胃に穴が開きそうなほどコーヒーカップを空けた。

内心何度席を蹴って帰ろうかと思ったかしれない。

オレには搭乗時刻というタイムリミットがあったのだから。

応接室に置かれた年代もののグランドファザーズクロックの秒針の音がやけに大きく感じた。

一秒一秒、恋人の待つ日本との距離が広がっていく。

明日、2月4日のオレ自身の誕生日を彼に祝福してもらうために3ヶ月前から計画していたというのに、全てが水泡に帰しつつあった。バカな金持ちが自分の恋人の誕生日を祝いに行ったせいで。

募る苛立ちのせいでカップを置く手が雑になり、むやみに大きな音が立つと壁際に影の用に佇んでいた執事はびくりと肩を揺らした。

オレが怒っていると感じたのか、恐る恐るこちらをうかがっているのがわかった。事実腹腸は煮え繰り返っていたからオレは愛想笑いもしなかった。

すると執事は何故か、頼んでもいないのに主人の行動の弁明を慌ててし始めた。気が立っていたせいだろうが、しゃがれたその声も酷く耳障りだった。

彼の言によれば、その恋人と当主はつい先日付き合い始めたばかりで、彼女の誕生日を知ったのは昨日のことだったという。

それが何の言い訳になるというのかと言いたくなったが、非常識な主人の行動に泣きべそをかきそうな酷い顔をした老執事に罪はないと思い、ぶつけそうになった言葉は喉で堪えた。彼もまた、主人と恋人が出会ってからの日数などこの状況を正当化する理由になりうるはずがないということは十分理解していたのだろう。きっと主を庇ってしまうのは執事の習性なのだ。彼はオレたちに向かって深々と頭を下げ、身勝手な主となんとか連絡をつけるべく応接室を後にした。

執事の声から解放されたオレは今日この先の予定に思いを巡らす。

この屋敷から空港まで、制限速度を盛大に無視して愛車を駆っても1時間はかかる。向こうに着いてからも手続きだなんだと最低30分は必要だろう。となると、3時半発の飛行機に乗るためには少なくとも2時にはここを出なければならない。

当初の予定では10時には契約を全て済ませ、求めがあればお茶に付き合って、そして12時には屋敷を出ることになっていた。昼は空港までの道のりで、もしくは空港で部下達と適当に何か食べるつもりだった。

それがもう、とうに正午を過ぎている。

待ちぼうけを食わされているオレたちに気を使った先代が用意してくれたサンドウィッチをつまんだので腹は満たされてはいるが。

ガラガラと音を立てて、というよりは時が経つにつれて砂山の砂粒がサラサラと転がり落ちてやがて輪郭を無くすように、オレの計画は緩やかに崩れていった。

そして、間がもたず次々と注がれるままに飲んでいたコーヒーが8杯目を数えたときだった。

乱暴としか言いようのない開け方で扉を開けて登場した当主は、その右腕を若い女の腰に回していた。

目の当たりにした非常識が度を超すとこちらの思考も停止してしまうらしい。オレもロマーリオも開いた口が塞がらなかった。

当主は機嫌よく恋人と連れ立って部屋に入り、何の問題もなかったようにオレの目の前、それまで空席だったソファーに腰を下ろした。

「土地契約の件でしたね。こちらとしては、キャバッローネさんにはいつも滞りなく支払いをしてもらってるし、更新に異論はないよ。ああ、ここにサインすればいいんだな。」

当主が取り出した金ピカの趣味の悪い万年筆が書類の上を滑る。

「これでよし、と。では私はこれで失礼させてもらうよ。カトリーンの誕生日パーティーの続きをしなくてはならないからね。」

誕生日。その言葉にはっとして時計を見ると、短い針はちょうど3のところを指していた。飛行機が飛び立つまであと30分。どうあがいてももう、間に合わない。

オレは初めて、血管の切れる音を聞いた気がした。

気付けばオレは高級感溢れるマホガニーのテーブル越しに当主の手を掴んでいた。胸倉を掴み上げなかったのは、残っていた僅かな良心の賜物だろう。

「契約成立、こちらとしても大変ありがたく思っていますよ。」

オレは当主の腕を自分の方に引き寄せて、彼の耳元に低く囁いた。

「今度ぜひ、キャバッローネ自慢の精鋭部隊の演習を見にいらしてください。そちらのお美しいご婦人も一緒に。」

当主の目に困惑の色が映るが、構わず続ける。

「特に銃器を使った実践形式のものは圧巻ですよ。ただ皆血の気が多いのが欠点で、お恥ずかしながらなかなか命中率が上がらない。仲間同士だとライバル心が先に立ってしまうようで。オレも流れ弾にでも当たったらと冷や冷やさせられますよ。」

当主の喉がごくりと鳴って、困惑から驚愕に表情が変化した。唇は半端に開いたまま、言葉が紡がれることはない。

『いつでもヤれる。』

その脅しが伝わったことを確認すると、沸き返っていたオレの脳内が日本茶をいれる程度までに落ち着いた。

「もちろん実弾なんて使いませんから当たっても大丈夫ですよ。」

にこりと笑顔を向ければ、あちらもぎこちなく引き攣った笑みを浮かべた。

オレが腕から手を放すと小心の当主はあからさまにホッとした表情になって、再び恋人の腰に腕を回した。収まりかけていたものが瞬間的に沸騰して、厭味の一つもいいたくなる。

「ご当主の恋人のお誕生日だと存じていたら、花束を用意してきたのに。」

女の視線がこちらに向いたのを感じた。

「もっとも、貴女のような美しい女性の前には咲き誇る花の美しさなど霞んでしまうでしょうがね。」

極上の営業スマイルでそう言ってやると、彼女の目が熱っぽく潤んだ。隣で当主が怒りに顔を赤く染めていたが、オレの感じた憤りはそんなものじゃないと心のうちで指を突き立てた。

「さ、オレたちはお邪魔だろうから早く失礼しよう。行くぞ、ロマーリオ。」

ロマーリオは困ったような、笑いを噛み殺しているような表情を浮かべながら、きちんと契約書類を腕の中に携えてオレの後に従った。

「では、素敵なお誕生日を。」

それが、オレが応接室に残した言葉だった。


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