目が覚めると、応接室の中は薄暗く、窓の外に見える空は橙から藤へとグラデーションを描いていた。 知らないうちに眠ってしまっていたらしい。開けっ放しの窓から吹き込むひんやりとした風に身体が震えた。 机の上ではまだ書きかけの書類が既に処理の済んだものの山の中に埋もれている。そのままにしておくわけにもいかず半ば強引に引き抜くと、パタパタと乾いた音を立てて紙の山は机の下へと雪崩を起こした。 普段ならいらつくところだが、眠気から逃れ切ってはいない頭はその様子を単に事実として捉えるばかりで、まったく感情に波を起こすことがない。そんな自分を妙に冷静に分析している別の自分もいて、不思議な感覚だった。 革張りの椅子からゆっくり身体を起こして、絨毯の上に散乱した書類を拾う。こんなことになる前にちゃんと整理しておけばよかった。軽い後悔とともに薄闇の中で内容を確認しながらまとめていると、こんな時間帯の学校には不釣り合いな賑々しい声が廊下のほうから聞こえてきた。 とっくに下校時間は過ぎている。まだ残っている生徒がいたなんて。 書類を拾う手を止めた。愛用のトンファーを両手に構えて、大股に戸のほうへ向かう。さっきまではしつこい眠気にまとわりつかれていた頭も校則違反者の登場で一気に覚醒している。 風紀を乱す者は、僕が許さない。 騒々しい声がこちらに近づいてくるのを確認してから、一気に戸を開けた。 否、開けようとした。 しかし、学校特有の滑りの悪いその引き戸は、僕の力ではなく別の力によって開かれていた。不意のことで、その別の力が戸の向こう側、廊下の方から加えられたのだと気付くのに半瞬を要した。 「Trick or Treat!!」 異様な風体で、馬鹿みたいにへらへらした男が僕に向かって叫んだ。 二年の山本武。最近僕の周りをうろちょろしている目障りな草食動物。 「君、こんな時間まで学校に残ってどういうつもり?しかも何なのその格好。制服じゃないよね。咬み殺されたいの?」 最後の言葉と同時に反論を許さず殴り掛かった右手のトンファーは、しかし空を切った。 「っぶね!怒んなよヒバリ。俺達ハロウィンパーティーしてるだけだから。」 紙一重で僕の攻撃を躱した男はいつもどおりへらりと笑った。 よく見ると彼の後ろには包帯で全身ぐるぐる巻きになった気味の悪いやつがいて、僕に怯えているのかしきりに帰ろうと促している。ミイラ男の仮装なのだろうが、重傷の患者にしか見えない。 山本のほうは裾や袖のちぎれた服で、額にマジックで縫い目が書いてあり、こめかみからは短い棒が出ていた。フランケンシュタインのつもりか。 「君たちまとめて咬み殺すことにした。」 苛々する。 僕が宣告すると、ミイラ男は悲鳴を上げた。その声でミイラ男がときどき妙に強くなる変な草食動物だと知った。 トンファーを構えて攻撃体勢に入ろうとしたそのとき。 「ヒバリ、まだ返事聞いてないぜ。」 えせフランケンの両手が僕の腕を封じた。無造作に、そしていとも簡単に。 「放せ。」 「Trick? Or Treat?」 「ふざけっ……ん…」 怒鳴り付けようとした僕の唇は、フランケンのそれで塞がれていた。隙間という隙間を埋めてしまおうとするみたいに濃厚に。 抗うべき腕は怪物に押さえられている。見下ろすような位置から押し付けるみたいに施されるせいで背骨が反って、蹴り上げることもできない。上体を捻って必死に抵抗するが、男は行為を止めない。 長い屈辱の時間から解放された頃には酸欠で頭がぼうっとしていた。 「お菓子くれねぇから、今の悪戯な。」 気味が悪いくらい爽やかにフランケンは笑った。その後ろでは、貧弱なミイラ男が情けない顔で目を白黒させている。(おそらく今さっき目撃した出来事に関して。) 「あー、でも。」 再びフランケンの能天気な声。 「やっぱ甘かったからお菓子だな。ヒバリの唇。」 その表情に、背筋が震えた。目の前の男の顔はまさに狩る者のそれ。 「じゃあな、ヒバリ。ちゃんと窓閉めて帰れよ。今夜は雨らしいから。」 そしてフランケンはミイラ男と連れ立って、廊下の闇の中に消えた。 一人になって、張っていた気が緩んだのか僕はくずおれるように床にへたりこんだ。 屈辱。 頭に浮かぶのはその文字ばかり。 何もできなかった。あんなことをされたのに、かすり傷一つ、負わせることができないなんて。 ぐちゃぐちゃと滾る心臓の奥をなんとか宥めながら、僕は立ち上がって窓のほうへ向かった。 目覚めたときに見えていた様々な色は全て深い闇の色に塗り潰されている。 窓から吹き込む冷たい風が頭を撫でると、暴発しそうなほどに沸騰した感情も静かに冷えていく気がした。 なぜあの男はここの窓が開いていることを知っていたんだろう。戸を開けたときにでも見えたのだろうか。 そんなことを思いながら、僕の指は無意識に繰り返し唇をなぞっていた。 End. (071031) |