見上げた空は青く、高く。まるで自分のちっぽけさをまざまざと見せ付けられているみたいで、酷く不愉快だった。 背中に触れるコンクリートは秋風に冷やされ、その容赦ない冷たさが打ちのめされてぴくりとも動かせない身体を心地よく冷ましていく。 この頃負けてばかりだと自嘲の笑みを浮かべようとすれば、硬直した顔面の筋肉が軋んで激痛が走り、それすら満足にできなかった。 我ながら見事な負けっぷりに口中に苦い味が広がった。 「大丈夫か?わりぃな、つい本気んなっちまって。」 僕の顔を覗き込むような位置にしゃがみこんで情けなく眉を下げた男は、そう言って僕の髪に触れた。普段なら絶対他人にそんなことは許さないのに、今は振り払うための手さえ上げられない。できることといえば、子供をあやすみたいに僕の頭を撫で続ける男をねめつけることぐらいだった。 「指輪の話なんだけどな、」 「聞かない。」 即答で拒絶してやったら、男は癖のある金髪頭をわさわさとかきまぜて、一層情けない顔になった。こんな男にこてんぱんにされたなんて、未だに信じられないし、信じたくない。 「じゃあどうしたら俺の話聞いてくれるんだよ?」 「………」 「なあ、キョーヤ。」 気力を振り絞って突き上げたトンファーは空を切った。右腕に走る鋭い痛みを堪えながら男を睨むと、後ろに飛びのいて僕の一撃をかわした男は尻餅でもついたのか、馬鹿みたいに大袈裟に痛い痛いと尻をさすっていた。 「いきなり何すんだよ〜危ないだろ、キョーヤ。」 「勝手に名前呼ばないでよ。」 そんな風に、僕の名前を呼ぶな。落ち着かない。内臓を直に撫でられたような、そんな気分になる。 「いったい誰に許可もらってそんな態度とってるの、あなたは。不愉快だ。」 さっきの攻撃のせいでもう口を開くのも辛い状態。相手の前に無防備に身体を横たえてこんなことを言っても、負け犬の遠吠えにすらならないのに。 「んなこと言われてもなぁ。だってキョーヤは俺の生徒だし。これからもキョーヤって呼ぶぜ。」 その男は負けてなお反抗的な態度を取り続ける僕に一度も不快な表情を見せることはなく、そう言ってにへらと笑った。理解できない。苛々する。 「だから、キョーヤもちゃんと俺のこと名前で呼べよ。」 「知らない。呼ばない。」 顔を背けて男が視界に入らないようにすると、ざわついていた心臓の裏側が少し静かになった気がした。 錆びたフェンスの向こうに見える町並みはいつもと変わらず静かで穏やかで。何の面白みもないこの小さな地方都市は、いつもと変わらず僕を拒むようにそこに存在していた。 「キョーヤ。」 呼びかけと共に、視界が回る。仰向けならば見えるはずの青い空は、男の端正な顔と艶やかな金の髪に覆われていた。こんなに至近距離から他人の顔を見ることには慣れず、咄嗟に目を逸らそうと思ったのに、甘い樹液を固めたような澄んだ茶色の男の瞳から何故か目を離せなかった。 「ディーノだ。さっきも名乗ったんだけどな。俺はおまえの家庭教師のディーノ。ちゃんと呼んでみ?」 さっきまでのへらへらした顔が嘘みたいに真剣な表情で促されて、僕の意志とは無関係に自然と口が開いた。 「ディ…」 言葉を送り出す形を作った口から微かな音が漏れる。抗いがたい何かに押されるように。 このままその何かに流されてもいいのではないかとさえ思った。 しかし次の瞬間、突然強い風が吹き寄せて、男の目はその手の平に覆われた。ゴミか何かでも入ったのか。 僕は呪縛から解き放たれたような不思議な心地だった。開きかけた唇をきゅっと結び直す。 「冗談でしょ。覚えないよ、あなたの名前なんて。」 強がって上体を起こすと、激痛とともに体中の関節がばらばらになるような感覚を覚えた。それでも絶対に悲鳴なんて上げない。この不愉快な男の前でそんな醜態曝してたまるものか。 「まだ寝てろって!そんな急に動いたら怪我長引くぜ。」 僕の決意をよそに、男はすぐに僕を元の通りコンクリートの上に寝かせてしまった。実際座っている体勢に一分と耐えられないほど身体はきつかったし、何より男が本当に心配そうな顔をするから、僕は抵抗する機会を失してしまった。 再び視界は、青く染まる。 「ほんと強情だなぁ、キョーヤは。」 ため息のような、苦笑のような男の吐息が落ちる。 「まあいいだろう。鳴かぬなら、鳴かせてみよう不如帰ってのは日本のことわざだったよな?俺の場合はさしずめ、呼ばせてみよう、ヒバリちゃんってとこだな。」 何か一人で納得しているようだが、僕は鳥じゃないし、絶対に呼んだりしない、と心の中で反論する。もう口を開くのも億劫だった。 男の名前を呼ぶことがあるなら、そのときが本当の負けだろう。 僕は、負けない。 「それでなキョーヤ、指輪の話…」 「知らない。聞かない。」 拒絶の言葉は決意の証。 男がまた例の情けない声で何度も僕の名を呼ぶのがうるさかったけれど、気にせずにゆっくり目を閉じた。瞼の裏に広がる緩い闇が僕をを包み込んでいく。 やがて訪れた睡魔は、酷く心地よい声で僕を呼び、優しい手の平で髪を撫でていったような、そんな気がした。 end. (071024) |