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俺は最近同じ夢を見る。真っ暗な闇の中にいる夢。足元や伸ばした手の先が見えない暗さなのに、自分の身体は見える。
音はない。……いや、シンと静まった音がする。自分の息遣いも、発したはずの言葉も無音にかき消される。まるで暗闇が音を吸収しているような、そんな感覚。
あぁ、またこの夢かと息をつく。ただその世界に存在するだけで何も起こらない夢。でもどこか懐かしく、落ち着ける夢。
その日の夢はいつもと違った。
《“ ”、こっちだ。早く帰って来い。俺の大事な“ ”》
音のない世界で初めて音を聞いた。正確に言うと耳から聞こえたのではなく直接頭に響く声。名前の部分はよく聞こえないが、“俺”を呼ぶ声。俺をどこかへ誘う声。聞き覚えのあるような、でも心当たりのない声だった。
「……きて! 起きてって、星瞬!!」
さっきとは違う声に現実に引き戻される。薄く目を開くとクラスメイトの村田健が俺の顔を覗き込んでいた。
「……はよ、けん……」
「おはよう、星瞬。もう授業終わったよ。正確に言うとホームルームもね。図書館、付きあってくれるんだろ?」
そう言いながら健はいそいそと俺の鞄に筆記具を詰め込んでいく。
「ふわぁ〜。もうそんな時間か。……今日は何? 国語算数理科社会? 音楽習字に図画工作? でも俺工作苦手……」
ぐーっっと大きな伸びをして尋ねると、俺の鞄を付き出された。
「数学。工作じゃないから安心して。……今日もよく寝てたね。あんまり眠れないとか?」
「俺がそんな繊細に見える? 実はさぁ、先月買ったギャルゲーの隠しキャラ瞳チャンがど〜しても落とせなくて……って冗談だよ。そんな冷めた目で見んな。大体そのゲームは大分前にフルコンプしたつーの。本当は弟。ぐずってなかなか寝てくれなかったから……」
「ふーん。星瞬も大変なんだね」
健はたいして興味もなさそうに鼻を鳴らした。
「これが仮にAとする。そしたらこの公式が使えるだろ? で、これを解くと……こうなって、このAを代入する訳。わかる?」
健のノートにシャーペンで数式を指し示しながら解き方を説明していく。健はうーんと唸りながら指示通りに問題を解いていく。
「そっか、なるほど。だからこうなるんだ。相変わらず授業中はずっと寝てるくせに、よくこんなに理解できてるよね」
「……一種の催眠療法じゃねぇ?」
俺は手に持っていたシャーペンを机に置いて立ち上がる。
「ちょっとトイレ行って来る。ついでに飲みモンも買ってくるけど、何がいい?」
「じゃ、アイスコーヒー微糖でよろしく」
「おー。俺が戻る前にその問題終わらせとけよ〜」
俺はヒラヒラと手を振ってその場を後にした。
「気を付けてね」
健が小さく呟いたのを、俺は知らない。
トイレに入ったとき、ボソボソと呟く声が聞こえた。気味が悪いと思いながら周囲を見回してみたが、俺以外誰もいない。気のせいか、と手を洗っていると、目の前の鏡に違和感を覚えた。
鏡が鏡の役割を果たしていない。俺が映っているはずのそこには、薄暗い、ある程度広さのある空間。その真ん中辺りに胡坐をかいて座っている少年がいる。思わず後ろを振り返ってみるが、誰もいない……というか普通のトイレだ。
どうなってんだ? そう思いながら再び鏡に目をやると、さっきの少年と目が合った。
見た目、中学生くらいのその少年は、濃灰色の長い髪を高い位置で一つにまとめている。大きな瞳は深い蒼。海の底を連想させる色。深緑の軍服のような服をラフに着ている少年は、こちらへと近付いて来る。
「☆○〜$Å?」
目の前まで来た少年が口を開くが、聞いたこともない言語。こんな記号ばかりの言葉は初めてだ。
にっこりと笑う少年に少しだけ警戒心は薄れたが、それでも気味が悪い。早くこの場から立ち去りたいのに、足が動かない。
《俺の元へ帰って来い、“ ”》
直接頭に響く声。夢で聞いたのと同じ声だ。
俺は無意識に鏡に手を伸ばす。鏡に触れた瞬間、その表面がぐにゃりと歪み、何かとてつもなく強い力に引き込まれていった。
訳がわからない。でも何故か俺は冷静だった。