「ねぇ、ヴォルフ。もし私が今、あんたの左頬引っぱたいたら、どうする?」
バルコニーの柵に体重を預け、隣に立つ幼馴染に問う。その質問が唐突過ぎたのか、彼は飲んでいた葡萄酒を吹き出した。
「突然、何を言い出すんだ!?」
「んー……ちょっと、この雰囲気に酔っちゃったのかなー?」
そう答えて空を仰ぐ。宝石箱を引っくり返したかの様に煌めく星が、夜の闇を明るく照らしている。
そんな状況で、好きな相手と二人きり。葡萄酒片手となれば乙女思考に呑まれもする、という訳だ。
「……というかお前、僕のこと好きだったのか」
気付かれてもいなかったなんて。……まぁ、鈍いのは分かってたけど。
「うん。でも私が一歩進めない内に陛下に先を越されるし、あんたはそれを受け入れちゃうし、おまけに義理とはいえ子供まで出来てさー。まぁ? 陛下は史上稀に見る良い人だし? 姫様は超可愛いしで、私なんか足元にも及ばないけどさぁ」
それでも八十年以上想い続けてきたのだ。横からかっ攫われて後悔したんだ、かなり。
グラスに残っていた液体を、ドロドロした感情と一緒に一気に飲み干す。ヴォルフは言葉を探しているのか、もしくは私の主張を最後まで聞いてくれるつもりなのか、真剣な表情で暗闇を見つめ、口を閉ざしている。
「ヴォルフが陛下や姫様を大切に想ってるのは知ってるし、それを壊すつもりもない。ただ……伝えたかったんだ」
ゆっくりとヴォルフに視線をやる。すると彼の湖底のエメラルドとかち合った。私は、何十年も押し留めていた想いを伝えるに相応しい笑顔を作った。
「私はずっとあんたのことが好きだった」
勇気がなくて、先を越されたのは私の失態。彼には幸せでいて欲しいから、ずっと笑っていて欲しいから、この想いには蓋をしよう。そう、決めていた。
ヴォルフがぐっと眉をひそめた。そうしている様子はフォンヴォルテール卿そっくりだ。兄弟なんだなって、こういう瞬間にふと思う。
「ちょっと待て。好きだった? 過去形、なのか?」
やっと彼が口を開いたと思ったらそんな言葉で。折角の私の素敵な笑顔は、一気に間抜けな表情になってしまった。
「僕は確かにユーリの婚約者で、グレタという娘もいる。だが、僕はユーリと結婚するつもりはない」
はっきりとした口調。真っすぐな視線。最近ますます磨きのかかった彼の魅力。それを向けられた私の心臓は早鐘を打つ。
「……言ってることおかしいの、わかってる?」
そう問うのが精一杯。なのにヴォルフはそれには答えなかった。
「お前が今、僕の左頬引っぱたいたらどうするか、だったな?」
やたら真剣な目が怖い。その目を逸らせない自分も、怖い。
「もし本当にそんなことをされたら、僕も同じ様にやり返す」
ニヤリとした妖艶な笑み。……こんな表情をするヴォルフは初めて見た。
頭が上手く回らない。自分を落ち着かせようとグラスを傾けるが、さっき一気に飲んで空になったままだった。
「えっと……ごめん、よくわかんない」
ヴォルフから目を逸らしそう告げる。ヴォルフの言葉がわからないんじゃなくて、何でそう言うのかが理解出来ない。
「つまり求婚返し、だな」
試してみるか? なんて言って笑う。酔っている時のヴォルフは呂律が回らないはず。でも今はかなりはっきりと話している。ということは、素面でこれだけのこと言ってるって訳?
「もう少し、国が落ち着いてから伝えようと思っていたが、状況を待っていると諦められてしまいそうだからな」
不意に途切れた言葉。思わず逸らしていた顔を彼に向けてしまう。彼の表情を見た瞬間、息が詰まった。長兄譲りの険しい表情でもなく、次兄譲りの柔らかな表情でもなく、母親譲りの妖艶な表情でもない。それはいつものヴォルフなんだけど、その真っすぐな視線は私だけに向けられていて、私に全てを集中させていると感じられた。その視線だけで、何もかも見抜かれて、逆に、何もかも伝わってくる、そんな感じ。
「僕はお前が好きだ。お前以外と結婚するつもりはない。ユーリに相手が見つかったら、僕と結婚してくれるか?」
だからその言葉に嘘はないってわかる。それに、ヴォルフがこの手の冗談を言うはずがない。だったら答えは一つしかない。
「喜んで」
フワリと笑って、彼の胸へと飛び込んだ。
「でもそれって、いつになる?」
「ユーリに聞け」
私を抱き寄せてくれるヴォルフの優しい声が、耳元で甘く響いた。